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 陽が陰り、今日も生き延びた、とカカシは思った。それに対して感情を抱いた訳ではない。ただその事実のみがあった。
 慰霊碑が赤く照らされ、彫られた名で歪な影ができている。その中に、カカシの名はない。代わりに、まだ残っている肢体が長い影を落とす。だがいつかカカシの名もここに刻まれるだろう。それはきっと、そう遠くのことではない。極自然に思う。そしてやはり、それに対しての感情は無い。
 ――いや、実を言えば、心の奥底ではそれを待ち望んでいる気持ちがあるのかも知れない。
 自分は、誰かに守られて生きてきた。誰かの命を犠牲にして生きてきた。感謝している。だが本当はそれと同じ位に、苦痛でもあったのだ。誰もがカカシを置いていく。何も残さず、消え失せてしまう。そんなのはもう沢山だった。
 いっそ連れて行って欲しい。カカシは懐かしい人たちの名前にそう願った。もう無理だ、と言いたかった。当然、そんなことは出来ない。影だけの文字は何も言わず、そこにあるだけだった。
 分かっていた。一人で耐え切るしかないのだ。いずれ、ここに刻まれるまで。
 決心は静かで冷たく、薄ら寒い心地がする。
 カカシは背中を丸め、身体を縮めてそれに耐えようとした。

 その時ふと、呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。
 赤い空の中に黒い影がある。人だ。
 カカシはそれが誰だか気付き、出会ってしまった、と思った。今こんな瞬間に、会うべきでない人。
 イルカだった。
 彼は嘆き悲しむような顔をしていた。だがそれも一瞬のことで、カカシを見つめるとすぐに変化した。真っ直ぐに、カカシへ歩み寄って来る。有無を言わせない、力強い足取りだった。
 カカシはその姿を呆然と眺めていた。彼は一体何をしているのかと不思議だった。避けられていた筈だ。カカシの方も、それで良かった。だからもうずっと会話は愚か、顔も合わせていなかった。
 それが今、目の前に彼が立っていた。迷いのない視線が、カカシを貫く。
 澄んだ、温かい瞳だった。
 カカシは狼狽し、目を逸らした。見ていられない。見たくもない。
 ずっと、会いたかった。顔を見たかった。触れたかった。でも、そんなことは出来ないのだ。出来ないから、見たくなかった。
 言い訳も体裁も考えようとさえ思わず、咄嗟に印を結ぼうと動いていた。それは忍びとしての反射で、胸まで上げた片手の形でやっと自分が瞬身を使おうとしていることに気付く。当然、何処へ飛ぼうというイメージもなかった。
 何処でも良い、ともかく逃げるのだ――カカシはどうしても上手く動かない指をどうにか動かし、何処かへと飛ぼうとした。

 だが、カカシは何処へも行けなかった。印が完成する前に、イルカの手がそれを止めていたのだ。
 イルカの両手が、カカシの冷えた指を包む。そうされてカカシはまず、ああ自分の指は凍る程冷えていて、その所為で上手く動かせなかったのかと無邪気に考えた。それから、イルカの手の感触をようやく感じ、湧き上がる喜びと衝撃がカカシを打ちのめした。振り払おうとする理性と離れたくない心が葛藤する。永遠に続くような激しい迷いだったが、それも間も無くイルカが断ち切った。
 この夕闇の中でふと、眩しい、と感じた。思わず、それを感じる手を見る。間違える筈もない、イルカのチャクラだった。昔感じたあのチャクラと少しも変わらない。明るく、はっきりと確かで、温かい。
 カカシは再び、鮮明に、懐かしい人たちのチャクラを思い出すことが出来た。声や感触や匂いも温もりも、笑顔も、もう失った筈のもの全てがここにあった。
独りではない、と思った。ああ、こうやって自分は、決して孤独になることがないのだ。

 忘れていた。これは昔こうやってイルカのチャクラを感じた時に知ったことだった。
 彼らはいつも、何も残さずにいなくなった訳ではなかった。カカシの中の、決して消えず、変わらないもの。それがカカシを生かし、救い、独りにしなかった。
 あの穏やかなチャクラ、優しい想いは、今もなお、カカシの胸を温め続けていたのだ。
 カカシは初めて、父の背中を抱き締めることが出来る気がした。今まで思い出の中で父の背中を眺めてばかりいた。苦しんでいる寂しい背中に触れられず、何も出来なかった。父がいなくなって、自分には誰も救えないと、分かった。
 だから、誰のことも助けることが出来なかった。いつも心のどこかで諦めていた。また置いて行かれるに違いないと、思い込んでいた。
 ずっと、怖かった。
 だが今は違う。

 カカシは両手をイルカの背に回して抱き締めた。温めて貰った手は、滑らかに、恐れも迷いもなく動かすことが出来た。
 彼を包むように、チャクラを集める。
 今までカカシを救ってくれた温かいチャクラを、全身で彼に受け渡した。
 決して独りにはなり得ないという、カカシが悟ったことを伝えたかった。そしてもし、彼が凍えた手で一人立つような時や、その目を深い苦しみで満たすような時、温める人間がいるということを、覚えていて欲しかった。

 震えた呼気が耳を掠める。懐かしい、涙の気配がした。慰めるように強くイルカを抱き締めると、彼はそれに応えてカカシの首に顔を埋めた。
 鼓動が聞こえ、温もりを感じる。彼の肩越しには大きな美しい落日が見えた。今日この時は、どんな瞬間にもこの光景と共に鮮やかに思い出せるだろうと、カカシは思った。







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