7
その日の夕日は何の加減か、いつまでも地平に留まっていた。まるで当然そこが夜中ずっと休むべき場所であるとでも言いたげに、大きく長くなって横たわっている。
いつかどこかで見たような空だ。その下を歩きながらイルカは背を丸め、両手を握り締めていた。寒かった。何もない両手に、自分の爪が突き刺さる。
人々は夕暮れに紛れ、何処かへ帰っていく。あるいは忍び達が、もう一度帰って来る為に、出かけていく。イルカはもう、自分にそういう場所があるかどうかを考える事さえ止めてしまった。
人の気配が苦しくなって、道を外れた。
夕日に背を向けても、何処までも赤い空がついて来た。結局イルカはいつもここにいるのだ。この寒い、夕空の下にたった一人で。逃げる場所も、逃げる気も無い。いつまでもここにいるしかない、覚悟があった。ただ耐え難く、寒い。凍りついた身体が薄氷のように粉々に砕けてしまいそうだった。手も足も冷たく、感覚がない。
あてもなく歩いていけば慰霊碑が遠くに見えた。俯くと、黒々と自分の影が地面に揺れている。死者の名前と、それだけがここにある。静かだった。それで満足だった。
だがふと、顔を上げると――その人はいた。
気付かなかったのは、黄昏に、微動もしない伸びた影が、墓碑のように見えたからだった。それが人であると、分かった時にはすぐ後ろまで来ていた。
もう、遅かった。
ああ何故今、とイルカは思った。今会いたくないと思う時にいつも、こうして出会う。
その人の背は、寒さに凍えているのか、何かを守っているのか、何かに耐えているのか、寂しげに丸まっている。そういう背を、イルカは良く知っていた。
色素の薄い髪と肌が、赤く染まっている。いつか見た、いつも見ていた姿。カカシだった。
彼は振り返り、驚くような、諦めたような顔をした。出会ってしまった、と思ったのだろう。
イルカは咄嗟に今までのように背を向けて逃げ出そうとして、止めた。出来なかった。
久し振りに見たカカシの顔は疲れ切っていた。瞼が落ち窪み、目は乾いて光がない。その瞳にはいつか昔、寒い夕暮れに見たあの目より遥かに、救いが見出せなかった。深く静かに淀む、底のない苦しみがあった。
だからイルカは、真っ直ぐにカカシの前まで歩いて行った。迷いも恐れもなかった。
カカシが、逃げるように目を逸らす。それから瞬身の印を結ぼうとしたのだろう、左手が胸の前に上げられた。それを、イルカは両手で押さえるように包み込む。
馬鹿なことをしていると、分かっていた。
これが一体、何になろう。何の意味を持とう。自分などが何をしても、どうにもならない。すぐに振り払われ、気味が悪いと罵られるのが普通の反応だ。
それを分かっていて、しかし、イルカは両手に力を込めて、そこにチャクラを集めた。冷えた指だった。凍えていた筈のイルカの手よりずっと冷たい。そんな指を、僅かでも温めたかった。
いつか誰かが、イルカにそうしてくれたように。
夕日は沈む筈もないように思えるほど地平に留まり続けている。
この赤に、またより一層に苦しめられる日が来るかもしれない。カカシを思い出して、空っぽの両手を絶望しながら眺めることになるかもしれない。
ずっと、それが怖かった。
だが今は、いつかどんなに苦しむことになっても、良いと思えた。今、カカシを見捨てて逃げることなど、考えられなかった。
だって――ああ、何故。
目の前で大切な人がこんなに苦しんでいる。それで何故、何もせずにいられるだろう?
長い間、お互い何も言わず動かなかった。時が止まったようだった。
しかし、触れ合った手が、同じ温度になっていくのを感じた時、カカシの目が泣きそうに揺らめいたのが、見えた。
その瞬間、彼の腕は、イルカの背に回っていた。すぐにカカシのチャクラが全身を包む。
温かく、優しく、そして懐かしかった。胸が強く締め付けられ、涙が込み上げる。
かつて貰った、両親や、優しい人達のチャクラが、鮮やかに思い出された。温かい、誰かの手を、はっきりと感じた。手の平にあたる指先の切り傷の感触や、落ちついた息遣いも鼓動も、温もりさえ、分かるようだった。
そしてその時やっと、イルカは理解した。
そう、確かに、父も母も、失った大切なものは二度と帰ってはこない。
それでもイルカは孤独ではないのだ。
頭には彼らとの記憶、心には彼らの想いがあり、そして触れた温もりは全身が覚えている。それは決して、消えることがないのだから。
いつか、カカシはイルカを置いて行ってしまう。その逆も有り得よう。自分たちはいつも一人だ。しかし、今日、カカシと触れたその事実は失われることはない。
ただそれだけで、イルカは永遠に、孤独にはなり得ないのだ。
カカシの背中越しに、赤い空が見えていた。
滲む視界にも大きな落日ははっきりと映る。それはとても、美しかった。