5



 サスケが里を抜けた。
 それは全くの予想外なことだった。それはあるいは誰の頭でも確実に予想できることではなかったのかもしれないが、カカシには心から、たった僅かの可能性でさえ考えられなかったことだった。あの子が、理解できなかった。一体何故そこまで激しく何かを求め続けられるのか。
 思えばカカシはいつも諦めて生きている。この世は仕方のないことばかりだと思う。だから失われるものをただ見ているだけしか出来ない。そんな人間には決して分からないことが、あるのだろう。

 病院の白い壁が、西日で赤くなっている。
 それを見て自然に、イルカのことを思い出した。随分と姿を見ていない。会いたい、と思った。だが、会えない、会えなくても良い、という諦めもある。まるでもう写真の中の人のような、遠い感じがした。
 ならば思い出だけを見ようと、カカシは強く目を閉じる。
 だがその時、ふっと空気が揺らいだ。
 顔を上げると、廊下の先にイルカが立っている。ナルトの病室から出てきた所のようだった。
 喜びより先に、子どもたちの事を知ってしまったのか、とカカシは残念に思った。
 もちろん、遅かれ早かれいつかは知れる。仕方のないことだ。分かっていた。だがそれでも、イルカにだけは知られたくなかった。きっと彼は苦しむだろうと予想できるからだ。 カカシには分からないサスケやナルトのことを、彼なら心底から理解してやれるだろう。だからこそ、苦しみもまた理解してしまうに違いない。

 目が合う。やはり、彼の目は、苦痛を一杯に湛えている。
 カカシは、はっとした。それは、あの冬の夕暮れと同じだったのだ。深く純粋な苦しみが、澄んだ目を満たしている。癒されたと思われたものは、まだ、消えていなかった。

 それを見つめて、カカシには分かったような気がした。
 そうだ、本当はそうだった。
 そもそも、イルカがナルトに手を差し出せたのは、あの子どもが何をどのように求めているか、はっきりと分かっていたからだ。そして何故分かったのかと言えば、イルカもまた同じものを求めたからなのだろう。
 あの冬の日の前よりもずっと、イルカは誰かの温かい手を求め続けていたに違いない。まるで、イルカの手を求めたナルトのように、強く、切実に。

 抱き締めたい、と思った。彼が望むことをこの腕で叶えたかった。カカシは無意識に、彼に近寄っていた。
 すると、イルカも、一歩、寄ってきた。思わず、といった風だった。しかしだからこそ、胸の内が晒されたように思えた。確かに、彼はこの腕を求めている。
 彼に求められている――それはカカシを喜びで震えさせた。
 ずっと切望していたのだ。彼に触れて、彼のチャクラを感じたいと。
 だが耐えることはもうない。抱き締めればいい。彼はきっと拒絶しない。いや、出来ないに違いない。この孤独な目が、差し出された手を拒絶することは、絶対に出来ない。

 カカシは彼の名前を呼ぼうと、口を開きかけた。
 その時、イルカの顔が赤い陽に染まるのを見て、息を呑んだ。
 その感覚は、本当に久しぶりだった。いつかの、父と見た落日が急に思い出されて、胸を締め付ける。
 まるであの時に戻ったように、父の背中が目の前にあるように、思えた。
 カカシは父を愛していた。誰よりも、愛していた。だが、あの人は決してこちらを振り向かずに、独りで何処かへいってしまった。

 だから、駄目だ、と思った。
 自分たちはどちらかが、そう長い年月を経ずに確実に死ぬ。そしてそれが早いのは、多分カカシの方だろう。
 誰かが逝き、自分は残されるという思いを、カカシは体験し尽くしている。そんな思いはもう出来ればしたくないし、そして何よりイルカにさせたくない。
 イルカのあの瞳の中の、果てしない苦しみの海の中の泡の一つにはなりたくなかった。彼を残して逝かないと約束する事も出来ない。ならば、近寄らず、彼の特別になることもなく、ただの知人として死んでいけば、少なくとも彼を大きく苦しめることはない。心優しい彼のことだから、知人程度でも人が逝けば悲しむだろうが、深く知り合った後よりはマシだ。
 自分はこの人をいつか置いていく。残される苦しみをこの人にはさせられない。

 ――いや、それは嘘だ。そんなのは言い訳だろう。
 ただ、カカシ自身が怖いのだ。
 拒絶されるかもしれない。救えないかもしれない。救って欲しくなかったと罵られるかもしれない。彼にそうされるのが怖い。
 そして何よりも、愛されないことが。心の底から、怖かった。

 カカシは立ち竦んだ。
 するとイルカが目を閉じ、背を向ける。
 チャクラ刀を背負った、父の背中と同じだった。
 お前には救えない。何も出来ない。その背中はそう言って、カカシを拒絶していた。







→I-5(イルカ編)へ→II-6(カカシ編続き)へ



←「ゆふがた」表紙へ