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 サスケが里を抜けた。そしてそれを追いかけたナルトが怪我を負い、病院に担ぎ込まれた。
 それを聞いた時、イルカは丁度、任務から帰ったところだった。何一つ物を考えられず、とにかくすぐに病院へ駆けつけた。
 サスケを追いかけて殺し合ったというナルトの状態は酷いものだった。一目でそれが死闘であったことが分かる。きっとナルトはサスケの身勝手さを徹底的に許し、まるで力強く掻き抱くかのように殴って、彼を孤独から引きずり出そうとしたのだろう。
 そしてサスケはその許しを拒み、抱き締める腕を無視した。彼が何を思って、それほどのナルトの手を振り払って里を抜けたのかはきっと誰にも分からない。
 しかしイルカにただ一つ分かるのは、サスケは孤独と苦しみを抱える子だったということだ。大切な何かを失い、苦しみ、たった独り暗闇でそれを探し求めて迷っていた。
 イルカはそれを知っていた。知りながら、何もしてはやれなかった。あの子が探し求めているのは、もう二度と戻ってこないものだ。この世のどこにもない。同じものは一つとしてないのだ。
 それを一体どうやって伝えられよう。どうして乗り越えろなどと無責任に言えよう。忘れろなどとも、言える筈がない。他ならぬイルカ自身がそれに囚われ続けているというのに。
 結局、イルカには何もできないのだ。ナルトにもサスケにも、過去も今も未来も、何一つ、してやれることはない。先生と呼ばれようと、孤独で臆病で、未熟な人間だ。もしイルカがサスケだったら、やはりナルトの無条件で優しい手を、取れなかったかもしれない。そんな人間が、彼らにしてやれることはないし、その権利もないだろう。
 ナルトにかける言葉もなく、病室を出た。

 日が暮れ始めていた。病院の白い筈の壁が、赤く染まっている。
 それをぼんやりと眺める内に、カカシはどうしているだろう、と不意に思った。
 もう随分会っていない。個人的に会うことはもちろんないし、アカデミーが休校状態になってから、受付業務も時間がまちまちになり、カカシを見かけることもなくなった。イルカでさえ任務に出されるようになったのだから、カカシなどは連日高ランク任務に駆り出されているに違いない。
 だからもうこのまま、会えることも無くなるかも知れない。
 自然にそう思って、すっと背筋が冷えた。誰もが唐突に、別れも告げずにいなくなる。カカシもそうだ。いつか彼の死は誰かから人づてに伝えられるだろう。それを、無力な思いで聞くことになるだろう。
 その想像は余りにリアルだった。イルカは喚き出したくなるような衝動を抑える。
 そして、歩き出そうとして、気付いた。ちょうど廊下の向かいから、カカシが歩いて来ている。
 イルカは、今会いたくなかった、とまず思った。
 顔を合わせてはいけない、と頭の隅で警鐘が鳴っている。しかしイルカの足は地面に拘束されたように動かない。
 カカシがふと顔を上げて、イルカに気付く。
 彼は目を見開き、奥まで覗き込むようにイルカを見つめた。そして僅かに腕を広げるようにして、数歩こちらに近寄った。

 それを見て、突然、イルカには分かってしまった。
 あの腕は、自分を拒絶しない。そして、いつかの冬の日のように、温かい、包むようなチャクラをくれる。
 きっとサスケにとってのナルトのように、追いかけてきて自分に手を伸ばしてくれるとしたら、それはこの人だ――驚きや疑いや躊躇もなく、ただそれが分かった。
 カカシの、イルカを見る目は、泣きたくなるほど優しかった。そしてその腕はイルカを受け止める為に開かれていた。きっとそれはずっと以前からそうだったのだ。イルカがそれを見ないようにしたから、知らなかっただけで。
 いや、知らなかった訳じゃない。
 全て、本当は知っていた。逸らされた目の意味も、決して触れることのない指先の強張りも。イルカが彼にそうしていたように、カカシも、イルカの背ばかり見つめていたことも。その視線を、イルカははっきりと感じ取っていた。何故なら彼は、それを隠そうとしなかったのだ。じっと、イルカの奥を見通そうとしていた。
 いつか失う日が怖くて、見ないふりをしていた。いつか必ず失うものなら、手に入れない方が良い。
 この人に触れ、そして失えば、自分は苦しむだろう。さっきそれを想像しただけで、絶望が胸を覆った。それほど、イルカはカカシに惹かれている。狂おしいほど、求めている。今やはっきりと、それを自覚した。
 ――縋れば良い。心の底で誰かが呟いた。
 そうだ、お前はずっとそういう存在を欲していたじゃないか。今、それが目の前にある。何を躊躇することがある?
 そういう声を聞きながら、イルカは無意識に足を動かしていた。一歩、カカシの方へ寄る。

 そしてもう一歩、踏み出そうとした時、ふっと夕陽が目を焼いた。夕空や九尾のチャクラや、母の血が、赤くイルカの全身を覆い尽くす。
 それで、出来ない、と思った。
 イルカは上げかけた足をぐっと踏みしめた。
 一度触れれば、自分は手放せない。失えないものは触れてはいけない。求めてはいけない。
 イルカは目を瞑り、カカシに軽く頭を下げると、背を向けた。
 彼がどんな顔をしているかなど見たくない。怒ったか、悲しんだか。決して振り向かなかったから、それは分からずに済んだ。

 カカシの瞳の奥や指先の温かさに触れたくなかった。それを求めているのは確かなのに、それを求めるような言動はどうしてもできなかった。
 それは恥じらいや不安などのためではない。
 恐怖だ。
 いつか確実に失うという恐怖。それは何かを失ったことがある人間にしか分からない、圧倒的な力だ。それが、手にすることを躊躇させる。何か失えばまた自分は死ぬよりも苦しむだろう。だからせめて、これ以上もう何一つ手にしたくなかった。何も心に刻みたくなかった。

 つまりイルカは、一人で生きていくなどと格好をつけた言い方をしようと、十かそこらの子どもの時のように、置いていかれたくないだけなのだ。
 失うのが怖い。一度触れた温かさを失う苦しみが怖い。
 ただ、怖かった。







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