9







 翌朝の目覚めは、穏やかだった。
 何の苦もなく抵抗もなく、瞼が開く。
 起き上がってみてから、ベッドにいたことに気付いた。イルカが運んでくれたのだろう。
 横を見ると、イルカは床で薄い上掛けに包まって眠っていた。僅かに眉をしかめ、胎児のように身体を丸めている。ベッドに移動させようと、抱き上げた。起こさないようにそっと動かす。自分の腕がこれ程、人間に優しく触れられることをその時初めて知った。

 目覚めさせずに済んだイルカをおいて、静かに外へ出た。
 外はやはり雨が降っている。小さくしとしとと鳴る雨音の合間に、空の具合でも見る為か、遠くで窓を開けるような音がした。歩いていくと、傘を差した男とすれ違う。
 誰も騒ぎ立ててはいない。何事もないかのようだ。家が幾つも消え失せ、そこに住んでいた筈の人々もいなくなったのに、街は変わらず平和だった。
 森にも、相変わらず結界がある。
 だがもうそこに俺のチャクラは感じられなかった。そして、明らかに弱まっていた。密だった網の目が緩み、穴が開いているような感じだ。まるで欠けてしまった街の様子と同じに。

「はたけ上忍」
 呼ばれ、振り向く。
 もう、驚かなかった。驚けなかった。予想できていたのかも知れない。
 少年は――いや、もう既に青年としか呼べない外見になり、木の葉で中忍以上が着ることの許される、支給ベストを着ていた。
「お前は……何者なんだ」
「俺は、イルカだよ。もう一人のイルカ……いや、同じものかな」
 その答えにも、どうしても驚けない。反論も出来ず黙ったまま、“彼”を見ていた。
 彼は微笑って、説明を続ける。
「アンタにも分かるだろうけど、人間は同時に二つのことを感じることが出来るんだ。イルカはね、アンタを一生閉じ込めておきたいと願いながら、申し訳ないとも思ってる。こんなことは間違ってるって、知ってるんだよ」
 彼の声は数日前より低く大人びていたが、口調だけが幼い。無邪気で、楽しげだった。そして唇を歪ませて微笑ってはいるが、目は暗く冷たい。彼の言うように、そこには相反する感情が同時に生じているのだ。
「その罪悪感が大きくなれば、俺も大きく、強くなる。そうなったら、俺でもイルカを殺せる」
 彼は言い続けながら、冷たい笑みを深めた。
 見ていられず、目を逸らす。しかし耳は塞げない。楽しげな声が勝手に耳に入り込んできた。
「アンタが殺すか、俺が殺すか。どちらかしかないんだよ。夢は終わるものなんだから」

 また、もう慣れた気さえするあの眠気が襲ってくる。反射的に見ると、彼はいなくなっていた。
 頭が重くなってくる。その眠気が前より緩やかなのは間違いないのに、抗おうと思えなかった。地面に両手と膝をつける。濡れた土の、どっしりと深く、柔らかな温かい匂いがした。さっきベッドに下ろす時に、至近距離で見つめたイルカを思い出す。同じ匂いだった。
 髪を垂れた雨粒が目に入り込んで視界を遮る。この目を閉じろと言われているようだ。
 それに抵抗する理由を思い付けず、瞼を下ろそうとした。

 だがその時、不意に気付いた。
 ほんの数メートル先に、イルカが立っている。
 いつの間に来たのか、分からなかった。イルカの存在は、取り囲む結界に紛れていたのだ。あのはっきりとした気配に気付けなかった程に。
「イルカ……」
 重い頭を持ち上げ、目元を腕で拭った。
 水滴のなくなった視界に、確かに、イルカが見える。
「カカシさん……」
 イルカは呟いたが、ただ立ち尽くしていた。倒れ込んでいる俺を助けるでもなく気遣うでもなく、距離を保ったまま。
 そしてその目には、いつもの真っ直ぐな明るさが無かった。暗く、冷たい、孤独な目。あの“彼”と同じだった。

 それを見て、悟った。
 多分ずっと薄々は分かっていたのだろうそれを、その時ようやく心底から、本当なのだと、認めた。
 ――何もかも真実だ。結界はイルカのもので、この街はイルカの夢なのだ、と。

 途端、眠気は微塵も感じなくなる。
 あれ程重かった身体があっさりと動く。
 立ち上がり、イルカに歩み寄った。
「イルカ、本当なの……」
 彼の口から、嘘だと言って欲しかった。
 だがイルカは何も言わず、逃げるように目を逸らした。
 確信と諦めが胸に満ちる。もう否定も拒絶も、無視も思い込むことも出来ない。イルカが原因だったのだ。

 だとすれば――
 はっと気付いて、思い返す。“彼”が真実を語っていたとすれば、ずっと言っていたあの言葉は。
『ここを出るには、イルカを殺せばいい』
 初めて、実感を持って、想像した。
 ここを出る為に、イルカを殺す――?

 ぞっとした。
 今までずっと、任務だからと、忍びだからだと言いながら、殺し、失ってきた。殺せないものなど無かった。失えないものなど無かった。
 だけど――

 縋るようにイルカを抱き寄せる。彼の身体は冷たく、固く強張っていた。
「イルカ…イルカ……」
 何を言うことも出来ず、ただ何度も呼び続け、強く抱き締めた。

 俺には殺せない。この人を、失えない。







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