目覚めると、見慣れた天井が目に入った。
最近、目覚め、この天井を見るたびに、ほっとしている。夢は終わっていない。イルカが生きている。そう思って安堵する。
窓を覗くと、酷い雨でほとんど外は見えなかった。水滴で白く覆われている。とはいえ、雨が降ってなどいなくても、外の様子は同じようなものだ。
日に日に、白い砂が増えていく。街は壊れ始めていた。
今やそんな非現実的なことに疑問も抱けない。これは夢の中だと、もう分かってしまった。むしろ現実でないとする方が辻褄が合った。
この街の成り立ちも維持もライフラインも不可解だった。限られた人々の中で、あれ程たくさんの子ども達が産まれるだろうか。この街の規模で当たり前のように使っている多くの水や電気を、どうやって作っているのか。イルカと食べていた塩や海水魚はどこから来たというのか。
有り得ない。夢の中だからこそ許される、矛盾なのだ。
今になって、そういうことに気付く。思えば、今までは頭の中が霧で満ちているようだった。どういうことかは分からないが、多分、俺は眠っていたのだろう。どんなに有り得ない馬鹿馬鹿しい夢でも、眠っている間は現実にしか思えないように、この不可能な街を受け入れてしまっていた。
ただもちろんそうなると、そんな夢に何故、どうやって入り込んでしまったのかという疑問が生じるのだが、今の俺にはそれを解く余裕はなかった。
横を見ると、すぐ隣でイルカが眠っている。
俺が、ベッドで一緒に寝て欲しいと頼んだからだった。イルカは躊躇ったが、拘束するように抱き締めて無理矢理横にならせた。もしかしたらイルカが突然消えてしまうかもしれないと思うと、不安で堪らなかった。
イルカは今朝も消えずにいてくれた。微かに感じる、穏やかな呼気が嬉しい。
深く眠っているようで、俺が立ち上がってベッドを揺らしても目覚めなかった。
あの森での一件から、イルカは良く眠る。俺が以前良く襲われた、あの唐突で激しい眠気を感じているようだった。
上掛けを直してあげながら、投げ出された手を一瞬だけ握り締め、そっと離す。
それから音を立てないように台所へ向かった。
良く眠るイルカの代わりに、家事はほとんど俺がやっている。イルカは悪いからと、止めるように言ったが、やらせてくれと頼んだ。些細なことばかりだとしても、イルカの為に何かしたかった。
鍋を火にかけながら、結界について考える。
ここ数日、森へは様子を見る為だけにしか行かなかったが、それでも結界は目に見えて弱くなっていった。街ももう半分ほどは砂の空き地になっている。
“彼”の言葉から推測するに、これはイルカの罪悪感がそうさせているのだろう。イルカは夢見ながら、間違っているとも分かっていて、その夢を壊そうとしている。
それだけなら良い。しかし問題は、“彼”が大きくなればイルカを殺せると言ったことだ。“彼”は罪悪感によって成長してきた。つまり、街の崩壊と“彼”の成長はリンクしている。
この街と夢が壊れる時、“彼”はイルカを殺すのだ。
一体どうすればそれを止められるのか――
思い悩んでいると、イルカが動く気配がした。
振り返って待ってみたが、なかなか寝室から出てこない。火を止めて、見に行く。イルカはベッドに上体を起こした格好で座っていた。
「イルカ?」
呼びかけると、こちらを向く。だが、焦点はほとんど合っていない。目はしっかりと開いているのに、寝惚けてでもいるようだった。
「……眠いなら、寝ていなよ」
今までとは違う覇気のないイルカの姿を見るのが辛かった。目を逸らしつつ背中を支えて促すと、イルカはまた横になった。
イルカは最近ずっとこうだ。ほとんど話さず寝てばかりだった。俺も、何を話されるのか怖いという気持ちがあるから、起こしたりもしなかった。
多分、今日も眠り続けるだろうから、朝食は作らなくても良いかと考えた。どうせ、夢だと認めてしまってから、空腹も感じない。家事をこなすのはただ、日常を作り上げたかっただけだ。
横たわるイルカの顔をぼんやりと眺める。
狭い部屋にイルカの気配と雨の音だけがあって、じっとしていると、焦燥と不安が襲ってくる。
森へ行ってみようかと装備を身に着けた。ここで武具は役に立たないと思っているが、習慣だろう、無くては落ち着かない。ベストを着てクナイを忍ばせ、ポーチを腰に着ける。
「……カカシさん?」
小さな声で呼ばれて、振り返る。
イルカが今やっと俺の存在に気付いて驚いたような顔をしていた。さっきとは違う、はっきりとした目だ。
「ああ、イルカ……」
かけるべき言葉を探したが、何も出てこなかった。
立ち竦む俺に、イルカは下へと視線をずらした。そしておそらく、俺が身に着けたベストやポーチを見て、呟いた。
「行くんですね……」
呟いてから、はっと俺の顔を見る。それから何でもないというように首を振ると、「いってらっしゃい」と言って、静かな笑みを浮かべた。
だがその目は再び暗く沈み込み、何も映していない。微笑んだ口元と冷たい目が、“彼”と重なって見えた。
きっと今、街のどこかで何かが白い砂になってしまっただろう。そう考えて、胸が強く痛んだ。
イルカが哀れでならなかった。この美しく平和な街を夢見ながら、苦しんでいるだなんて。
前のように屈託のない笑顔を見せてくれるなら、あの穏やかで幸福な日々を送れるなら、俺はどんなことでもするのに。
そう思ってから、気付いた。
俺がこの街から出ようとするから、イルカは閉じ込めていると思って罪悪感を持つのだ。
ならばそう感じないようにするにはどうするか。
簡単だ。
――俺が、出ようとしなければ良い。
今着けたばかりのベストとポーチを外して、部屋の隅に放り投げる。
それから、ベッドの横に跪いて、イルカの手を取った。
温かい。自分とは違う、温度を感じた。それが嬉しい。
イルカのそばにいると、その存在を感じると、安心する。そんなことは初めてだった。
彼に会って俺はようやく、呼吸しているという気がした。生きている、と感じる。これまでの人生を一人で、どうやって生きてきたのだろう、と疑問に思う程だ。
そう、俺は一人だった。大切な人達は皆いなくなってしまった。
今までのことを思うと、沁み渡るような静かな寂しさを感じた。多分ずっと、俺は寂しかったのだ。それに気付かなければ、独りでも平気だっただろう。
だがもう、戻れない。
イルカが大切だ。この人を失えないと、分かってしまった。
俺は、覚悟をした。
イルカが失うくらいなら、いつまでもこの街の中にいよう。
もう、夢の中でも良い。現実など犠牲にしても良い。
「カカシさん、森へ行くんだったんじゃ……」
イルカが訊いてくるのにも、「行かない」ときっぱり答えた。
「もう出られなくても良いんだ。イルカと一緒にいられれば」
だから、イルカは何も悪いと思わなくて良い。ずっと夢を見続けて、この街で笑っていて欲しい――そう伝えたくて、イルカを抱き締める。
「イルカ…ずっと一緒だよ……」
囁くと、ちゃんと伝わったのだろうか、イルカの腕が躊躇いがちに俺の背中に回る。
それが俺には、思わず泣き出してしまいそうに、嬉しかった。