8







 それから結界を解くことに集中した。
 雨はいつまでも止むことなく降り続いていたが、構わず森に通った。
 毎日ずぶ濡れで帰る俺を、イルカは心配そうな目で迎え、タオルで包んでくれる。その優しさに触れる度にますます、意志は固くなった。俺は昼も夜もなく、思考し、試し、結界を解く手段を探した。

 そして数日経った。雨の降り続く、寒い朝だった。
 イルカより先に家を出て、街を通り抜ける。森へ着くと、すぐにいつものように結界へ向かった。
 そして印を試そうとすると、声がした。
「はたけ上忍」
 あの少年の声だった。
 来た、と思った。いつかは来ると分かっていた。そしてもう二度とその言葉は聞かないと決めていた。少年の言葉や外見、結界に感じる雰囲気も、イルカを疑わせようとする罠に違いない。
 俺は振り向きもせず、結界に向かったまま印を結び始めた。
 すると、軽い吐息が聞こえた。少年が、笑ったのだ。恐らく、それは嘲笑で、攻撃に備えて神経を尖らせていた俺の背中に、刺さるように冷たい気配を感じた。
「真実を知りたくない?」
 からかうような口調に、黙れ、と叫びそうになる。努めて深く呼吸しながら、印を結ぶ手だけ見つめた。
 そうやって興味などないと示した俺に、だが少年は構わず話し始めた。

「ここは――夢の中なんだ」
 その言葉に、やはりそうなのか、と反射的に思った。
 まるで夢見ているようだ、とつい先日の朝感じた。それが正しかったのだ。当たり前だ、あんな幸福を俺が持ち得る筈がない――。
 そう考えてから、少年の言葉をあっさりと信じてしまっていることに気付いた。
 内心、舌打ちをして、止めてしまった印を続ける。もう何も聞くまいと、集中して手を動かした。

 だが、それを少年は、またもあっさりと崩した。
「これは、イルカが見ている夢なんだよ」
「イルカの、夢?」
 知らず、呟いていた。思いも寄らない言葉だった。
「そう。アンタと一緒に、平和に暮らす。そういう夢」
 それを聞いた俺は、論理的な思考をするよりも早く、喜びを感じていた。嬉しかった。こんな平穏をイルカが夢見てくれたというなら――
 それからはっと気付いて、その感情を押し込めた。
 そんな筈はない。非現実的だ。これが夢で、ましてやイルカの、つまり他者の夢に俺が入り込んでいるだなんて。
「有り得ない、そんなことは」
「有り得ない? 本当に? この街はおかしい。アンタもそう思ってる癖に」
 断言され、あぁ、と嘆息した。
 そんな筈はないと思っているのに、同時にこの街の奇妙な部分を上げ連ねてしまう。
 眠っている時、夢の中の自分は現実だと思って行動していても、本当は、これは夢だと分かっているような、感覚。
 鼓動が早まる。印を結んでいた筈の手はもう止まっていた。
 少年は鼻で笑った。
「俺はもうこんなに大きくなった。街はどうなったかな?」
 謎めいた言い方だった。
 どういう意味だ。ずっと背を向けてきた少年を、ついに振り返って、見た。

 まず目に入ったのは、木の葉の額当てだった。小さな頭に、当然のように巻かれている。それは、木の葉の忍びとして認められた証であり、そう簡単に手に入るものではない。何故、それを少年が着けているのだ。
 呆然としながら、改めて良く見るともう一つ、気が付いた。
 背が、伸びていた。数日前まで少年としか言いようがなかったのに、今はもう青年との狭間ほどにも見える。そうなると、ますますイルカに似ていた。
 それは幻術でも変化でもなかった。写輪眼で見ても、何も不審な所はない。たった数日で少年は成長した、そういう説明のつかない事態が起こっていた。
 動揺して立ち尽くす。少年は冷えた目で俺を眺め、言った。
「街を見ておいでよ」

 俺はすぐ、街へと走り出していた。言われた通りにすることに屈辱も危険も感じなかった。嫌な予感と、不安だけがある。
 森を抜け、街へ戻る。奇妙に静かだった。ばしゃばしゃと、自分の足が水たまりを跳ねさせる音が大きく響いている。誰もいない。気配もしない。
 酷い雨の所為だ、と言い訳するように考えた。
 だがちょうどその時に、気付いた。
 それはイルカが学校へ行く時、曲がる角だ。そこで緑色の屋根が見える筈だった。古びた、だが良く手入れされていた家。柵に幾つか鉢がかけられていて、花が咲いていた。その横で、イルカの背を見送っていたから、良く覚えている。
 そういう家が、無かった。
「そんな……」
 あった筈だ。数日前、数時間前まで、いや十数分前まではあった。森へ行く時、いつもと同じように歩いて、通り過ぎた。確かに見た。
 それが、今は無い。
 改めて見回すと、並ぶ家々の間に所々、突然ぽっかりと隙間が空いている。綺麗に立ち並んでいた家々が、やはり幾つか無くなっているのだ。
 そのどれも、瓦礫や痕跡もない、ただ真っ白な、砂地になっていた。

 呆然とする内に、またあの妙な眠気が襲ってくる。
 身体が重い。だがいつもよりは緩やかだった。まだ、立っていられる。横たわりたい欲求を抑え、家へと歩き続けた。
 何とか辿り着き、ドアを開けた先に倒れ込む。半ば閉じた瞼の向こうに、イルカが見えた。
「イルカ……」
 それ以上は言えなかった。そのまま眠り込んでしまった所為ではない。
 何を言うべきか。どうするべきか。どう思うべきか。どう考えるべきか。何も分からなかった。







→9へ