翌朝も、雨は降り続いていた。
 俺は寝床で寝転がったまま、昨日のことを思い返した。
『殺せばいいんだよ、イルカを』
 少年の声が、ずっと脳内で響いている。
 あの後、以前と同じく、気絶するように眠り込んでしまった。幸いすぐに目覚め、少年はいなくなっていたが、それ以上結界を調べる気にはならなかった。実を言えば、もう一度、イルカの気配を感じてしまうのが、怖かったのかもしれない。
 もちろん、少年の言うことが真実だとは思っていない。
 あの時、結界には確かに、イルカの気配がした。だがそれも、ただの気配に過ぎないのだ。イルカが原因だとは断定できない。
 それなのに、少年の声と結界の気配が纏わりついて来る。そしてそれに対して、嘘だ、気の所為だ、と言い切れない自分がいた。可能性はある、と考えてしまう忍びとしての自分だった。
 溜息を吐いて、起き上がる。今後の方針は定まっていないが、いつまでも寝ている訳にはいかない。

 ずっと襖の向こうから物音がしていた。イルカだ。とうに起きて、朝食を作ってくれているのだろう。いい匂いが漂っていて、忙しく台所を動き回っている気配も良く分かる。
 一瞬、あの結界を思い浮かべて、頭を振った。
 こんなことを考えていると、イルカが心配するし、悲しむだろう。疑念や不安は決して顔には出すまいと決めて、寝室を出る。
「おはよう、イルカ先生」
 いつものように言った。
 すると、イルカが振り向いて微笑い、挨拶を返してくれる。
 雨雲さえ貫いて射してくる朝の日が、弱弱しくも確かに、その頬を照らした。

 不意に――なんということだろう、と思った。
 己が今、只中にいるものに、愕然とした。
 朝起きると、自分の為に食事を作ってくれる人がいて、笑ってくれる。なんということだ。これが、本当に自分が体験していることなのか、信じられなかった。
 そう、信じられない位に――俺は、幸福だった。
 こんな幸福が本当に存在するのだ。そして、まさかこの俺が、それを、感じることが出来るなんて。
 まるで、夢でも見ているようだった。

「イルカ……」
 呟き、引き寄せられるようにイルカの傍へ歩み寄っていた。
「カカシさん?」
 様子がおかしいと分かったのだろう、イルカは少し首を傾げて俺をじっと見た。
 心配そうな目だ。俺を、気遣ってくれている。
 こうやって彼はいつも、俺の存在を受け入れて、許し、大切にしてくれる。訊いて確かめてもいないのに、そう確信できた。
 そして俺もそれと同じものを返したいと願っている。俺は本当に、彼を信頼し、尊敬し、家族のように思っていた。
 そんな人を、疑いたくなどない。

 イルカの前に立つと、その手をとり、握りしめた。彼の手は、洗い物でもしていたのか、しっとりと濡れて少し冷えている。
 それを感じると、胸の内が熱くなった。守りたい、と強く思った。この手を、この人を絶対に守りたい。
 祈るように誓うように、彼の手を捧げ持ち、額に押し当てる。
「俺、結界を解くから、一緒に外に出よう。一緒に、木の葉の里に来て欲しい。イルカならきっと歓迎してもらえる」
「カカシさん……」
 突然に言い募られ、イルカが困惑した声で呟く。
 訳が分からないだろう、嫌がっているかもしれない。それでも手を離すことは出来ない。離れることは出来ない。
「ここにいちゃ駄目だ。ここにいたら――」
 どうなるのか。俺にも分からない。だからそれ以上何も言えず、縋り付く子どものように、イルカの手を握り締めた。
 イルカは黙ったまま、俺にその手を預け続けてくれた。







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