目を開ける前に、屋根を叩く微かな音が聞こえて、今朝は雨なのだと分かった。
身体を起こし、寝台のすぐ後ろにある窓を覗くと、外は白くけぶっている。かなり降っているようだ。引っ切り無しに窓ガラスに雨粒がぶつかり、筋を作って垂れていく。
ぼんやりそれを眺めながら、イルカの気配が台所から漏れてくるのを感じた。この街に来てからどうも神経が緩んでいるような気がするが、イルカの気配だけはすぐ読める。明るくて存在感があるのだ。
寝室を出ると、やはりイルカは台所にいた。
「雨ですね」と話しかけると、珍しいのだと教えてくれた。この街は例の結界の所為か、いつも天候が安定しているのだという。
台所の小さく開いた窓から外を眺めると、木の葉の里でも中々ないような大雨だった。
「これは今日は無理かな…」
呟いてから、名案だと気付いた。昨日の今日で、あの謎の少年が現れるかは分からないが、近寄らない方が無難だろう。同時にイルカに害が及ばないように護衛もできる。
この街に閉じ込められて、謎ばかりで情報もなく、不利極まりないが、しかし必要なのは慎重さだ。どんな相手も、いずれ正体は分かってくる。今はまず、自分と、そしてイルカの身を護ることが第一だろう。
俺のそんな裏を知らずに、「今日はイルカの手伝いをする」と告げると、イルカは嬉しそうに笑った。
それから、一日イルカと過ごした。
イルカも今日は学校が休みで、溜まった家事を片付ける予定だったと言うので、それを手伝う。
軽く掃除をし、「お布団を干せないのが残念ですね」と所帯染みたことを嘆くイルカに苦笑しながら、室内に二人分の洗濯物をぶら下げた。
イルカが風呂好きを自称するだけあって、念入りに風呂を磨くので、俺はちょっと放置気味の台所を片付ける。それから、冷蔵庫に余り食材が無かったので、午後に買い出しに行くことにし、少し早めに簡単な昼食を食べた。
食べ終わってから、イルカにこの街のことについて話してもらった。
それは情報収集のためというよりは、俺が単に聞きたかったからだ。イルカが街の人々や、学校の子ども達のこと、綺麗な風景を、笑ったり怒ったりしながら話すのが好きだった。毎朝眠そうなおじさんの妙な挨拶だとか、学校の木の背比べの跡だろう横線だとか、多分、どの街にでもあるのだろう些細なことだったが、俺にとっては見聞きしたことのない、新鮮な話だった。
「カカシさんの里は…? どんなところですか」
一通り話すと、きっと隠れ里についてだからだろう、イルカが遠慮がちに訊いてきた。
「俺の里は……」
数瞬返答に迷った。言えることはないように思えた。機密に関わるからではない。ただ、イルカが語るような美しい話は俺にはできないからだ。それは里が悪い訳じゃなく、俺が見てこなかったものが多過ぎる為だった。
「…良いところですよ。こことちょっと似てる。きっとイルカ先生も気に入るよ」
結局、そう当たり障りのないことしか言えなかった。イルカは残念がっているのか、聞くべきでなかったと悔いているのか、俺から目を逸らし、ちょっと俯いた。
「そうですか…」
辛うじてそう返事はしてくれたが、それから言葉はなく、沈黙が落ちた。
咄嗟に俺は、何か言わなくては、と思った。
里のことを、何でも良い。きっと何でも、イルカは聞いてくれる。
俺は必死に里について思い出そうとした。任務で外に出てばかりいたが、それでも良いものは見てきた。俺が守りたいもの。俺が帰るところ――
だが、どうしてもそれが思い出せない。
思い出したものは全て外の景色のように白くけぶって良く見えないのだ。
それでも目を凝らそうとすると、次第に頭が重くなって、強い眠気に襲われた。
「ごめん、先生…何か、眠い……」
座っている身体さえ支えられずに、両腕を着いて耐える。ぐらぐらと頭が揺れ、視界がぼやけた。
「…少し、眠りますか?」
イルカが心配そうに言って、俺の手に触れた。暖かい体温を感じて、益々眠気に抗えなくなった。
ほとんど抱えられるようにベッドまで運んでもらい、横になる。
「……イルカ、も…」
目を瞑りながらも、イルカの気配が去っていくのがどうにも惜しく思えて、辛うじてそれだけ口にし、ベッドの端へ寄る。するとベッドが軋む音がし、隣に気配を強く感じた。イルカが俺の空けたスペースに横たわったようだった。
緩い坂道を下っていくように、穏やかにゆっくりと、眠りに入っていく。切れ切れに木の葉の里について思い出そうと試みたが、徐々に纏まった思考が出来なくなった。
軽やかに雨が流れていく。雨足は弱まったのか、何の音もせず、とても静かだ。
平和だった。
ぼんやりと、閉じていく瞼の隙間から白い窓を見て、大きな繭の中に包まれているようだと思う。生まれる前に、母親の腹よりもっと前に、戻ったようだった。そこは平和で、余りにも平和で、悪いものなど何もない。
楽園、というやつだろうか。そう思い、頭上に洗濯物がぶら下がっている、随分と所帯染みた楽園だと微笑った。
そして目を閉じて、身体を完全に繭に委ねた。その瞬間、俺は、自分がここにいる理由も、危険も、不安も、全てを忘れていた。