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「――カカシさん!」
 大声で名を呼ばれているのを聞き、目を開けた。
 少年はいない。代わりに似た顔をしたイルカが心配そうな表情で、倒れている俺を見下ろしていた。
「……イルカ先生…」
 寝起きの為に不明瞭な声が出たが、身体に異常はないようだった。
 気絶するように眠ってしまった俺は完全に無防備だったのに、何も危害を加えられていない。その事実に俺は、幸運だったと喜ぶより、むしろ得体の知れない不気味さを感じた。
「大丈夫ですか?」
 警戒しながら見上げれば、少年に似た顔がある。しかしその雰囲気は、声は、情に満ちていて、少年とは全く違う。余りにも真剣にこちらの状態を窺うものだから、思わず気が抜けた。
「大丈ー夫。帰りましょ」
 俺がそう言って笑うと、イルカも息を一つ吐いて笑った。
 立ち上がり、森から出る。陽がもう落ちかけていて、空は真っ赤に染まっていた。その下をゆっくりと二人で歩いていく。
 本当は家へと帰る道を行く途中、何度もイルカに少年について聞いてみようかと考えた。しかし、落日に見とれ、子ども達がそれぞれの家へ帰っていく姿に笑み、漂う夕餉の香りに目を細めている、イルカの顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
 この人はきっと何も知らない。ただここで平和に暮らしているだけだ。そう思った。

 忍びとして可笑しくなるような速度で歩く。イルカに合わせるという意識はなかったが、自然とそうなった。緩く風が吹いている。雲も少ない。この街は、気候さえ平和だった。
「そうだ。俺のこと、森まで探しに来てくれたんだよね? ありがとね」
 歩きながらふと、礼を言っていないことに気付いて話しかける。すると、イルカは浮かべていた穏やかな表情を崩した。
「いつもより帰りが遅かったので。いなくなってしまったのかと…」
 珍しく歯切れ悪く、語尾が消えていく。
 子どもにするような心配をされて、普通なら聞き流すようなことなのに、俺は嬉しくて、そして気恥しくなった。それが本当に心底から、俺を心配しての言葉と行動だと、疑うことなく信じていたのだ。
「良いじゃない、厄介が減るでしょ。俺、イルカ先生の家に居候して、迷惑掛けてるのに」
 くすぐったいような心地を誤魔化すために、軽口を叩く。
 するとイルカは、「そんなことないです!」と、存外に激しく否定した。こちらを真剣に見て、それから目を逸らし、小さくこう続けた。
「…俺、小さい頃両親を亡くして、それから一人なので……嬉しいんです」
 言いながら、イルカは鼻からの傷痕の端の辺りを指先で掻いた。それはイルカの恥ずかしがっている時の癖で、それに気付いてしまった俺も恥ずかしくなる。
 俺もずっと一人だったが、イルカと暮らすことは違和感がなく、新鮮で楽しかった。きっと同じように思ってくれているのだろう。
 しかし、『俺も嬉しい』と言える程の素直さは持ち合わせていなかったので、がしがしと後頭部を掻きながら、紛らわすように別の言葉を口にした。

「あー…イルカ先生はさ、ここから出たいとは思わないの?」
 聞くと、イルカは軽く左右に首を振った。
「どうして?」
「皆、外にはきっと色んなものがあるんだって、言うんです」
「そうだね。広くて、ここよりは色々あるかな」
 イルカは頷いて、立ち止った。見ると、何かを固く決意しているような真剣な顔つきで、しかし何処か夢見るような緩やかな目をしていた。
「…でも俺は、何にもなくて良い。ここは――平和だから」
 イルカは言って、陽の落ちていった森の方を仰ぎ見た。俺もそちらを向く。複雑に色の混ざり合う空と、豊かに茂った木々の黒の対比が美しかった。
 俺はイルカに何も言えず、ただそれを見ていた。
 確かにここは本当に平和で、誰もが望む地だろう。しかし俺はここを去る。生まれ育った土地、争いを生業とする里へ、帰る。それは義務ではあったが、しかし俺自身も望んでいるのだ。

「カカシさんは、出たいですよね……帰りたいですよね……」
 不意に、俺の心を読んだように、小さくイルカが呟いた。
「イルカ先生…?」
 俺は横を向いたが、イルカは既に歩き出していて、残照が急に翳った夕闇の中では、イルカの雰囲気さえ、窺い知れなかった。





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