16


「すごくいい天気だよ、イルカ」
 窓を開け放ちながら、イルカに話しかけた。窓の向こう、四角い空が青く澄んでいる。暑くも寒くもない、湿気も少なく快適で、きっと天国とかいうところはこんな様子なんじゃないだろうか。
 振り向くと、そよ風が、黒い髪を微かに揺らしていた。
 それを受けて、常ならば心地よさそうに、喜ばしげに笑ったであろうその人は、今は無表情のまま、微動だにしない。
 イルカは眠り続けていた。

「身体的な異常は見つかりません」
 イルカについて、医療忍はそう言った。
「脳波からすると、ただ眠っているんです。とても深く。夢も見ずに」

 目覚めるのを待つしかないと言われた俺は一日中ベッドの横に座って、イルカに話しかけていた。
「イルカ、俺のこと覚えてる? 覚えてるんだよね、だからあんな夢見たんだよね?」
 俺と一緒に平和に暮らす。そういう夢だと、”彼”は言っていた。俺を見知っていなければ、そういう願いは生まれない筈だ。
「俺、思い出したよ。やっと分かった。俺が忘れちゃったから、信じてくれなかったんだね……」
 そうだ、俺は少年の頃のイルカと出会ったことを、任務も共にしたのに思い出せなかった。
 ”彼”は、俺がイルカをなんとも思っていない、すぐに忘れると頑なに言っていた。あの冷たい諦念に満ちたイルカが生まれたのは、きっと俺のせいだったのだ。
「イルカ……俺はここにいるよ。言ったでしょう、あの街を出てもイルカと一緒にいるって」
 どんなに語りかけても、返事はなかった。
 イルカは白いベッドの上で静かに横たわったまま、その頬もまた白さを増していくようだ。あの街の砂のように。

 医療忍からは、このまま眠り続ければ危ないと、言われている。
 愚かな己のせいで、また大切な人を失ってしまうのか。
「イルカ、お願い、帰ってきて……」
 どんなに呼んでも、誰も応えてはくれない。帰ってはこない。
 俺はいつもそうだ。こうやって、いなくなってしまってから大切なことに気付いて、必死になって呼びかけるのだ。

 ――いや、そもそも本当に、あれはイルカの夢だったのか?
 俺だけが見た、ただの夢だったのではないか。結局その方が理屈に合う。
 あの街やイルカは、俺が生み出したものに違いない。あの日々に感じたイルカからの愛情も、俺がそれを夢見たからだ。俺を受け入れ、許してくれたあの笑顔も都合の良い幻だ。
 あれは、決して叶わない夢なのだ。やはり、あんな幸福は、俺のような者が得られるものではないのだから。
 夢とイルカの状態を都合よく解釈して、一人で自分勝手なことを話しかけて、馬鹿としか言いようがない。

 俺は立ち上がり、自分の病室か自宅か、とにかくどこかへと帰ることに決めた。
 医療スタッフに任せておけば、近いうちイルカも目覚めるだろう。いつかまた任務か、里のどこかで会って、少年の日のことを話す機会も訪れるかもしれない。いやそれもイルカが忘れている可能性もあるから、もう会わない方がいいだろうか。

 考えながら歩き出そうとして――不意に、ぽかりと開いた落とし穴に落ちたような気持ちになった。
 美しい空も、射す陽光も、色を失う。微かに花の香りがしていた、涼やかな風が止む。どこかから聞こえていた里の人々の声も、もう聞こえない。
 誰もいない、何もない、闇の中だった。
 だがそれは、驚くこともない、慣れた闇だ。俺はずっとそこにいた。あの街にいる間は、それを忘れていた。
 つまり、昔に戻るだけだ。
 ただそれだけのこと――

 それなのに、足が動かない。知らぬ間に、すとんと、またベッドの横に座り込んでいた。
 もう戻れない、と思った。

 何故なら闇の中に、もう一人の俺が立っているのだ。
 それは小さな、少年の姿をした俺だ。”彼”は、泣きじゃくり、叫んでいた――寂しい、と。

 目の奥が痛む。呼吸がひきつる。これは何だろうと思う間に、視界が滲み、自分が泣き出そうとしていることに気付いた。
「イルカ……俺を、独りにしないで」
 もう一人の俺が、いや、紛れもない俺自身が、呟いていた。


 その時、ベッドの上で、力なく投げ出されていた手が、小さく動いた。
 幻を見るような気持ちでそれを眺める俺の目元に、指先が触れる。
「――泣かないで……ここに、いますから…」
 掠れた、しかし優しさで満ち満ちた声が、聞こえた。
「イルカ!」
「……夢?」
 ぼんやりとしたまま、イルカが呟く。俺も何度も思ったことだ、その気持ちが痛いほど分かった。
 起き上がろうとするイルカの背を支えた。上体を起こして辺りを見回す彼は、長く眠っていたからか、チャクラ切れの影響か、多少頼りなげにふらついている。
「どうしてここに、カカシさんが……?」
 イルカは寄る辺ない子どものように不安げだった。
 だがきっと俺の方こそそう見えているだろう。ほとんど縋るような必死さで問いかけた。
「イルカ、教えて……あの街は、俺だけが見てた夢じゃないよね?」
 それは質問というより祈りだった。どうか。そうじゃないと言って。
 イルカは目を見開いて、喘ぐように乱れた息を吐いた。
「街……あれは、本当に……?」
 イルカが呟いたのはそれだけだ。だがそれだけで分かる。
 激しい歓喜が湧き上がり、思わずイルカを抱きしめていた。
 やっと、夢じゃないと言える! あの日々は幻ではなかった、俺だけの夢ではないのだ。
「おれ、ごめんなさい、カカシさん……」
 つらそうに言うイルカの身体は強ばって、冷たい。砂の中のイルカを思いだして、怖くなった。
「違う、違うんだ、イルカ。謝らないで」
 身体を離し、イルカとしっかりと目を合わせる。怖がってはいられない。今度こそ、信じてもらわなければ。
「聞いて。俺ね、夢を見たんだ。穏やかで平和な街で暮らす夢。そこは、誰も傷付かず、失わず、悪いものなんか何もない、楽園みたいな所だった。とても、幸せだった。夢が叶ったと思った」
「おれが、こわした……」
 俯いたイルカの震える唇が呟く。
 俺は頷いた。そうだ、楽園はもうない。そこにいたいと望んでも、もう戻れない場所だ。
 だが俺にはもう分かっている。大事なのは、そんなことじゃない。
「あのね、イルカ。俺、やっと分かったんだ。楽園じゃなくても、良い。悪いものだらけだって良いんだ。ただ、大切な人がいてくれれば」
 本当はそんなことずっと知っていたのだ。もういない人たちや、少年の頃のイルカが、教えてくれたのだから。
 里を守りたかった。ずっとその為に生きてきた。ただ必死で、夢中で、暗闇ばかり見ていて、一番大事な、守りたい理由をいつしか忘れてしまった。あまりに悲しくて、寂しくて、手を伸ばすのに怯えて、独りでいすぎて、見失っていたのだ。
 俺は忍びでいよう。木の葉を、仲間を、大勢の家族を、この人を、守る為に。たとえ現実が、悪夢のようだったとしても。
「貴方と一緒に生きたいよ、この里で」

 イルカが顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
 その瞳は涙をいっぱいに溜めていたが、優しく、温かい。それはあの街で見た通りの、夢見ていた通りの、俺がずっと欲しかったものだった。
「俺も、貴方と……」
 囁きながら、美しい瞳がゆっくりと瞬く。澄み切った涙が一粒、目尻から溢れた。

 咄嗟に、そこに唇を寄せていた。
 震えて息を呑む音が間近に聞こえ、突然不安になった。嫌だったか、とすぐに離れる。
 イルカの様子を見る勇気が出ず、俯いた。断罪される気持ちがした。
 だがイルカの手が伸びてきて、俺の頬に触れる。
 そしてどこまでも深い許しを感じる瞳と見つめ合い、何も考えることも、怯えることもないと分かった。
 互いに引き寄せられるように、唇を合わせる。
 どこかから楽しげな笑い声が聞こえ、風が吹いてきて、陽光を溜め込んだ黒い髪が揺れる。世界が鮮やかに輝いているように感じた。

「夢みたいだ」
 穏やかな声がぽつんと落ちてくる。そして温かい腕が、背を包んでくれた。
 夢みたいだ、と俺も思った。

Page Top