13


 寝台の上でイルカが眠っていた。つらい夢でも見ているのか、顔を顰めて苦しむような、泣き出しそうな顔をしている。
 そして俺はただそばに座り込んで、イルカの手を握りしめていた。
 どうすれば良いか分からなかった。街はもうほとんど壊れてしまった。イルカと住むアパート以外、見渡す限り、真っ白な砂だけ。
 天候も目まぐるしく変化し、雨だとも晴れだとも言えなくなった。灼熱の夏の陽に照らされながら粉雪が舞ったと思えば、次の瞬間には激しい雷と風が白い砂の中を駆け抜けていく。朝昇った太陽がすぐに落ち、夜は永遠とも思える程長い。

 幸か不幸か、考える時間だけはある。俺はずっと“彼”の言動を思い返していた。
 以前彼は、ここはイルカの見ている夢だと言った。ということはつまり、現実世界にイルカが存在しているということの筈だ。イルカの存在それ自体が夢幻ではないということ。
 ならば、死なずとも、目覚めるだけで良いのだ。何とかして現実世界のイルカを目覚めさせれば、夢は穏やかに終わる。この幸せな夢を手放すのは惜しいが、現実にイルカが存在するのなら、イルカが生きてさえいてくれれば、それで良い。
 それに“彼”の今までの服装や、街の様子から考えると、イルカは木の葉の忍びなのではないか。もしそうでなくとも、世界中からだって絶対に探し出してみせる。

「ねぇ起きて。起きて、イルカ。ここで、じゃなくて、現実に。夢から覚めて」
 眠るイルカの頬をそっと撫で、囁く。聞こえているのか、顰められた眉の間の皺が深くなる。
「イルカ、聞こえる? 夢から覚めたら、あなたを探し出すからね」
 俺が言うやいなや、ざらり、と嫌な音が聞こえた。外からだ。
 顔を上げると、窓の外を白い砂が覆っていた。雨が伝うように、砂が後から後から流れ落ちていく。
「駄目だよ」
 呆然としていると、突然、笑う声がした。振り向くが、”彼“はそこにいなかった。どこからか声だけが響いてくる。
「イルカは目覚めない。手に入れた幸福を自分からは手放せない。アンタを手放すくらいなら、死んだ方が良いと思ってる。だから、イルカは目覚めない」
 そこで、聞こえてきたのと同じく唐突に、静寂が訪れる。
「イルカ!」
 声を限りに、見えない“彼”を呼ぶ。返事はない。きっとそうだと分かってはいたが、抑えられなかった。
 彼に、その気持ちが、そんなにも想ってくれることが、とても嬉しいと言いたかった。

 代わりにイルカを引き寄せた。”彼”にも届くよう、強く抱き締める。
 イルカは体温が高くて、触れていると心地が良い。
 いや体温だけじゃない。彼は心身が、温かかった。
 愛情深く、丸ごと受け止めてもらえる気持ちになる。表情豊かで、どうしたらそんなに、と聞きたくなる位に素晴らしい顔で笑う。日常の些細な物事を、美しいと捉えられる健全なこころを持っている。優しい声。はっきりした明るい気配。柔らかな匂い。深い、穏やかな瞳。
 そして“彼”を通して見せた、イルカの罪悪感も、冷たさも、頑なさだって、その優しさや誠実さや愛情あってのことなのだ。

 街で過ごした日々で見せてくれたイルカの全てを、思い返せば思い返すほど、信じられない気持ちになる。
 だって、俺にとってイルカはまるで、明け方に見る都合の良い夢みたいな人だ。ずっと欲しかったものをくれる人だ。そんな人が今、目の前にいる。

「俺、あなたが好きなんだ」
 たまらなくなった想いが、ひとりでに漏れ出していた。そしてその自分の声を聞き、ああそうだ、とすとんと納得した。好きだと言うのだ、こういう想いを。そんな言葉、あまりにも縁がなかったから気付かなかった。
 だが、それはとても正しい言葉なのに、言い終えた後は物足りないような気がした。もっと深く、もっと強く、イルカを想っていると伝えたい。
 そういう気持ちが溢れ出すままに、もう一度唇が開いていた。
「イルカ……あなたを、愛して――」

「――違う」
 冷えた声がした。
「イルカ……」
 すぐ横に、“彼”が立っていた。
 何の感情もない瞳で、俺達を見下ろしている。彼は背丈や体格もイルカとそっくり同じ程になっていて、もう見分けはつかなかった。
「アンタは騙されてるんだ。籠の鳥が主人を慕うのと同じ。閉じ込められて、頼るのがイルカしかいないから、そういう気持ちになるんだ。そんなのは嘘っぱちだよ」
 俺は彼を見上げて首を振った。
 その振動でか、彼のせいか、腕の中のイルカが身動ぎする。ぼんやりとした目が、俺と彼とを交互に見た。 
 怖かった。イルカが彼を認識し、彼の言葉を聞いている。
「違う、俺は閉じ込められてる訳じゃない。俺が、ここにいたいんだ。もう出たくない。ここにいよう、イルカ。ずっと」
 慌てて言い募り、イルカを抱く腕に力を込めた。彼を信じないで、俺を信じて。
「ああ、ここを出ちゃったら、イルカとなんか一緒にいたくないよねぇ」
 あざ笑う笑みに、胸が傷んだ。そんなことを言わないで欲しい。俺を信じて欲しいのに。
「違う! ここを出ても同じだよ! 俺はイルカと一緒にいたいのに……!」
 俺は二人のイルカを交互に見つめ、二人に同時に訴えた。
 腕の中のイルカが迷うように視線を彷徨わせる。それを見下ろす彼がにやりと笑った。
「違うね。アンタはイルカを何とも思っちゃいない。ここを出れば分かる」
「違う違う! 信じて、俺は本当にイルカを――」
「――嘘だ」
 彼はもう笑うことさえなく、小さく呟いた。今まで聞いた中で、一番、冷たい声だった。冷え切って、容赦なく、果てしのない諦念を感じた。
「ここから出ればアンタは、イルカを忘れる。アンタはイルカなんか相手にしない。そうだろう? ――ねえ、イルカ」

 呼びかけられ、イルカは顔を上げる。まっすぐに、もう一人のイルカを見た。
「イルカ……?」
 呼びかけても、もうこちらを見てくれなかった。
 ”彼”が手を差し伸べ、イルカもそれに応えて腕を上げる。
 そして彼らの指先が触れた、その瞬間、彼がすう、とイルカの中へ溶けるように掻き消えた。

 イルカの身体から、魂が抜け落ちたようにがくりと力が抜ける。
「イルカ……!」
 倒れ込んだイルカの顔を覗き込んで、俺は叫んだ。表情の失せたその頬に、さらさらと、降ってくるものがある。白い砂だった。
 見回せば、木造の天井も、壁も、ガラス窓も、カーテンも、全てがゆっくりと砂へ変わっていくところだった。当然のように、呆気なく、止めどなく。
 イルカと過ごした部屋が、白く、崩れ落ちていく。
「嫌だ、イルカ、こんなのは嫌だ……!」
 イルカの顔に降る砂を、必死で払いのけた。そうする俺の手にも、無情に砂が降り積もっていく。
 雨から守る傘のようにイルカに覆い被さるが、積もった砂が徐々に俺達を飲み込んでいった。

「夢を見てました……幸せな夢……」
 もう身体の半分ほども埋まってしまった砂の中で、イルカが囁いた。砂が落ちてくる音に紛れそうなほど小さな声だった。
「貴方を護りたかった……そんなの、叶わない夢なのに」
 イルカが、俺の頬に向かって手を伸ばす。しかしその中途で力を失って落ちていった。追いかけて伸ばそうとした俺の手は、砂に埋もれて動かせない。
「今までごめんなさい、カカシさん……もう、馬鹿な夢は見ませんから……」
「嫌だ、嫌だよ、だめだ、イルカ……」
 駄々をこねる幼子のように繰り返す。砂に埋もれ、もう何も出来ることがなかった。
「――さよなら」
 悲しげな声で呟いて、イルカが目を閉じる。その顔を、白い砂が覆い隠した。

 俺は為す術なくただイルカの名を呼んだ。何度も何度も。
 応えはなく、やがて視界全てが白く染まった。

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