12


――そこで、目が覚めた。
 しばらく何が起こったのか、分からなかった。呆然と、薄暗い部屋の天井を眺める。
 夢だった。
 夢だった、のは分かるが、何が、どこまでが夢なのか。混乱して、分からない。
 さっき見たものだけか? それとも、“街”自体が夢だったのだろうか?
 全てがただの夢だったとしたら? あの幸福が? イルカの存在が?
 ぞっとして、ベッドから飛び起きた。
「イルカは……? イルカ……!」
 叫ぶように呼びかける。もし必要ならそのまま声が嗄れるまで叫んだって良かった。
 しかし幸いにも寝室を出てすぐにイルカの背中を見つけた。居間のちゃぶ台の前に座っている。俺は溺れる者が縋り付くような必死さでその背に抱きついた。
「良かった……」
「……カカシさん?」
 小さく、不思議そうな声でイルカが言った。俺の名前を呼んでくれた、それだけのことがこんなにも嬉しい。背を抱く力が勝手に強まってしまう。
「ちょっとね、夢を見て怖くなって」
「子どもみたいだ……」
「いいじゃない。好きでしょ、子ども」
 イルカの背にぐりぐりと頭を擦り付けて、甘える子どもを模してみる。こんなこと本当の子どもだった頃にはしなかった所か、したいとすら思わなかったのに。
 なんでもいいから、ただイルカに触れていたかった。さっき見た二つの夢のように。そうだ、あれは正に、夢だった。理想だった。それを守る為なら、何だって出来る。
 幸せな夢のおかげで、決心はより強くなった。
 今まで寝てばかりいたイルカがこうして起きてきたということは、きっと良い方へ向かっている。このまま俺は街を出る気がないんだと示し続けていこう。そうすれば、ずっとこの平和な街で暮らしていける。

「そうだ、学校へ行こうか。子どもたちが待ってるよ」
 さっきの夢を思い出して言う。名案だと思った。子どもたちと接すればイルカはもっと元気を取り戻すだろう。
 しかし、イルカの反応は予想とは全く違っていた。
「学校……?」
 イルカはか細い声で、ぼんやりと呟いた。まるで、学校とは何か、分からないみたいに。
 俺の胸で、鼓動が跳ね上がった。顔を上げ、イルカを振り向かせる。
 イルカの顔からは表情が抜け落ちていた。子どもたちのことを話す時いつも見せていたような、明るい笑顔は見る影もない。胡乱な、暗い目だった。

 嫌な予感がした。
「イルカ、俺……すぐに戻るから!」
 湧き上がる焦燥にいても立ってもいられず、イルカを置いて部屋を飛び出した。
 白く抜け落ちた家々の間を駆け抜ける。忍びの術を使おうと思い付きもしなかった。ただ無様に息を切らして走った。
 学校へたどり着く。
 そこには――何もなかった。古ぼけた校舎も、遊具も、もちろん沢山の子どもたちもいない。
 ただ一面が白かった。全てが、白い砂になっている。
「嘘だ……」
 見たものが信じられなかった。
 どんなに街が崩れても、ここだけはずっと無事なような気がしていた。だってイルカはここを、あんなに大事にしていた。ここで子どもたちと過ごすイルカは幸せそうだった。決して失えないものの一つのように見えたのに。

「このままでいられるなんて、まさか本気で思ってたの?」
 声がして、振り向くと、“彼”が立っている。
 一瞬、イルカか、と思った。身長も体格も、ほとんど同じに見える。また成長していた。
 俺がここを出たくないと伝えても、駄目だったのだ。イルカの罪悪感は無くならなかった。彼はこんなに成長し、学校さえ壊れてしまった。
 彼は大きくなった自分を見せつけるように両腕を軽く開く。そして冷たい笑みを浮かべた。
「幸福だと感じれば感じるほど、罪悪感は大きくなっていくんだよ。イルカはもう俺を止められない」

 もう、耐えられなかった。
 ――殺してやる。
 どんな任務でも感じたこともない、抑え難い殺意が湧き上がる。
 こいつさえいなければ、街は壊れない。夢の中にいられる。街を、イルカを守る為には、こいつを殺すしかない。
 装備を何も身に着けてこなかったことを後悔した。だが、一人殺す位、得物など必要ない。この身全てが凶器になる。そうやって戦って、生きてきたのだ。
 息を吸うような自然さで、右手にチャクラを集めていた。
 距離は数メートル、相手も武具や防具の類はない。数秒もかからず、やれる。目の前の男を睨みつけ、いつでも飛びかかれるよう足先に力を込める。

 しかし本気の殺気を受けても、彼は微動だにしなかった。逃げることはおろか、防御姿勢すらとらず、両手をだらんと垂れ下げたまま、ただそこに立っている。
 そして遥か遠くを眺めるような焦点の合わない瞳をして、小さく呟いた。
「そりゃそうだよね、アンタを閉じ込めて、アンタの意思踏みにじってるのに、幸せになっちゃおかしいもの」

 ふっと力が抜けた。集めたチャクラが霧散していく。
 殺せない、と思った。
 ようやく分かった。彼がいつか言っていた通り、彼もやはり、イルカなのだ。
 思えば彼はずっと俺に危害を加えなかった。挑発するような物言いに反して、害意も殺意も敵意もない。むしろ今の言葉からすれば、俺のためを想ってくれている。彼の冷酷さは、俺に向かっていない。自分自身へ向けられたものなのだ。

 イルカとは正反対な、暗く冷たい瞳が憎かった。だが今やその冷たさが、哀れだと思った。哀れで、愛おしかった。 
 殺すことも、目を逸らすことも、俺には出来ない。彼はこんなにも冷たく頑なで憎らしいのに、それがイルカの一部なら、抱き締めて、受け入れたいのだ。
 今まで見てきた明るく朗らかなイルカの中に、どんなに薄暗いところがあったとしても、イルカへの気持ちは変わらない。いや、より一層に愛おしい。
 今こそ、胸が痛む程に、強くイルカを想った。

「イルカ……!」
 初めて、“彼”の名を呼ぶ。伝えたいことが、聞きたいことが、沢山あった。

 しかし彼は何も応えることなく、冷たい瞳を一度瞬かせると、ふっと掻き消えた。

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