眩しくて目が覚めた。
カーテンが開いていて、朝の陽射しが部屋中を明るく照らしている。半分だけ上げた瞼の向こうに、青空が見えた。
「カカシさん」
呼ぶ声がする。イルカだった。まだ光に慣れない目にも、確かに見て取れた。イルカが、笑っている。
思わず手を伸ばしていた。
頬に触れると、イルカはこそばゆそうに小首を傾げた。日に焼けた頬が動き、目尻の笑い皺が深くなった。髪を梳きながら首の後ろまで手を滑らせる。ふう、とイルカが微かな吐息を漏らした。
堪らない気持ちになって、イルカを引き寄せる。
短く上がった驚きの声を胸に吸収する。イルカは数度、慌てて押しやるような素振りを見せたが、無視して抱き締め続けると、やがてゆっくりとその腕を俺の背に回してくれた。そこから温かく柔らかな体温が、じわりと全身を包んだ。
目の前の黒い髪が、たっぷりと朝陽を孕み、光を留め置いている。眩しく思いながら指先で弄ぶと、イルカの震えるような息が胸に当たった。
突然、嫌だったのかと不安になって、手を離す。
思えば今まで、まるで子どものように無邪気にべたべた触れてきてしまったけれども、イルカは嫌じゃなかったのだろうか。大の大人にこんなことをされるなんて、普通おかしいと思うだろう。でも俺にとっては、それは自然なことだったのだ。イルカに触れて、抱き締めて、近くに感じたかった。
そっと、イルカの様子を窺う。断罪されるような思いがした。
だがそれはすぐ杞憂だと分かった。
イルカは、可笑しそうに笑っていたのだ。
「イルカ?」
訊くと、「くすぐったくて」と答えた。あんまりそうっと、力を入れずに触れていたものだから、イルカにはくすぐられているように感じていたらしい。
「ごめんね」
慌てて言ってから、何だか可笑しくなって、俺も笑う。目が合って、二人して、くすくすと笑った。
そして、そのまま見つめていると、いつの間にかお互い、顔を近づけ合っていた。
それは自然で、当然の流れだった。
額がくっついて、鼻先が触れ合う。ピントが合わない位近くにあるイルカの目尻には、まだ笑みが残っている。おかしなことをしているという様子は少しも感じられない。
安心して、瞼を閉じた。
それからイルカの後ろ頭を支え、唇を寄せる。触れ合う瞬間の衝撃に、自分が耐えられるだろうかと、考えた。
――が、その時、突然けたたましい音が部屋中に響き渡った。
反射的に起き上がる。腰に手をやってから、武器の類いを身に着けていないことを思い出し、代わりに瞬時にチャクラを腕に込めた。
そのまま油断なく部屋を見回しーー鳴っているのは、ただの目覚し時計だということに気付いた。
時計の横の写真立てを倒しながら、慌てて手を伸ばす。スイッチを切ると途端に部屋は静まり返った。
夢だった。
俺は頭を抱えて呻いた。ベッドから動けない。できればもう一度眠って続きを見たかった。
何故ならそれは、見たこともないくらい、幸せな夢だったからだ。
そう、あれが幸せだ。俺はああやってイルカと二人きり、誰よりも近くで、体温を感じていたいのだ。夢見てやっと、自分の願望に気づいた。
だが夢が幸せであればある程、現実が辛くなる。壊れていく街について思い出して、今度は違う意味でベッドから動けなくなった。
身体を投げ出し、目を閉じる。今は何も見たくない、考えたくない。もう眠りたくもない。叶わない夢なら、見たくなどなかった。
叫び出したいのに、一体誰に、何を、叫べばいいのかも分からない。だからただ唇を噛み締めた。
その時ふと、強ばった頬を慰めるように穏やかな風が撫でた。目を開けると、カーテンがふらりと揺れている。誰がいつのまに窓を開けたのだろう。
起き上がり、揺れるカーテンを掴む。外を見ると、空は雲一つなく晴れていた。
「いつまで寝てるんですか、カカシさん!」
声がした。優しげで明るく、柔らかくも張りのある、愛しい声が。
「イルカ……?」
振り返ると、寝室の入口で仁王立ちになったイルカがいた。
「子ども達が待ってますよ!」
こどもたち、とオウム返しに俺は呟いた。一瞬何を言われているのか分からなかった。イルカが最近ずっと眠っていたから、学校という存在について忘れていたのだ。
「そっか……学校へ行くんだね?」
「もちろん、そうですよ。まったくもう、まだ寝ぼけてるんですか?」
からかう口調の明るい声に、俺の顔には笑みが広がっていった。
イルカが、元に戻った。
判断は間違っていなかった。やはり、俺がここから出ようとしたからいけなかったのだ。でももう大丈夫。イルカはまた笑ってくれた。
この分なら、街も蘇るだろう。家や人々が戻って来て、元のように明るい、楽園になるだろう。そして、俺たちはこの街で、ずっと一緒に暮らしていく。
心配事がなくなった途端、現金にもさっき見た夢を思い出して、自然と視線はイルカの唇へ向かった。あの夢の続きを知りたい。実現させたい。
「ね、イルカ」
ちょいちょいと手招きする。イルカは何も疑わない目でこちらへ寄ってきた。小首を傾げた彼の腕を引っ張る。うわ、と小さな声をあげて、イルカが俺の胸に飛び込んできた。そのままごろりとベッドに横たわる。
「こうしていようよ……学校なんて行かないで」
驚いた顔のままのイルカの頬を指先で撫でて、低く囁く。誘惑を正しく理解してくれたようで、指先の向こうの頬が真っ赤に染まった。
かわいい。ちょっとずつ口説いていこうと思ってたのに、我慢できないかもしれない。
「イルカ……」
囁きながら、指先を唇に滑らせた。許しを乞うように、そのまま待ってイルカの目を覗き込む。
黒い瞳が朝陽を取り込んできらきらと光っている。それは澄みきって、底が見えないほどで、どこまでも吸い込まれていきそうだった。このまま永遠にこれを見つめていたい。
だがそんな願いは叶わず、すぐに隠されてしまう。イルカが瞼をぎゅっと閉じてしまったのだ。
「……ッもう、馬鹿言わんでください!」
嘆息する俺を押しのけて、ベッドから逃げていく。
仕方なく、俺も立ち上がった。良い感じだったのに残念だ。
だが、心は晴れやかだった。
上機嫌で身支度をする。寝間着を脱ぎ、何の機能性もない、ただの薄っぺらいシャツを着た。武具はおろか、ベストもポーチも着けない。
忍び服や装備は部屋の隅に放り出したままだ。早く捨ててしまいたい。もう必要ないから。
まさか、自分が忍びでなくなる日が来るとは思わなかった。
俺は生まれた瞬間から忍びだった。そして死ぬまで忍びだろうと思っていた。ずっと、そうあることに疑問も不満もなく、喜びさえ感じていた。この身が里を守るのに役立つということが、嬉しかった。確かにそうだ。そこに、少しの嘘もない。
だが、同時に心の隅で想像することもあった。
忍びであることをやめて、どこか争いのない穏やかで静かな所に住む。
馬鹿げた、叶う筈のない夢だ。小さな子どもが、空飛ぶスーパーヒーローになりたいとか願うのと同じ、たわいのない空想だった。分かっていたから、実現する努力はもちろん、強く希ったりもしなかった。
だが、それがどうだ。ある日目が覚めると、こうして、夢が叶っていた。
少し前には何故、木の葉へ帰ろうなどと思っていたのか。今思うと疑問だ。
ここにいたい。永遠に、街から出たくなどない。イルカと一緒に、平和に暮らしたい。
「イルカも、ここにいたいよね。何処にも行きたくないよね?」
訊くと、イルカが振り向く。
彼は呆れたように少し笑って、当たり前じゃないですか、と答えた。