ヤマトは何も見えない闇の中で手探りするように動いた。
 伝って歩くための壁がちゃんとそこにあるか、地面は平らか、障害物はないか、一つ一つ丁寧に調べ上げているみたいだった。
 危険はないと納得しないと、恐ろしくて一歩さえ進めないのだ。その位に、ヤマトを覆う暗闇は深かった。

 指先がそっと瞼の縁を掠める。目を閉じるともう少し確かに触れてきて、睫毛を撫でられた。くすぐったくて僅かに顔を背けたら、指はすぐに瞼を離れて頬へと戻った。
 イルカは目を開けた。ヤマトが闇で目を凝らすようにじっと見ている。同じようにイルカも見つめ、先程されたようにヤマトの瞼を撫でた。すると、やはりくすぐったいのだろう、イルカがしたように顔を少し背けた。
 そうしてから安心したようにまた指先でイルカの顔のそこここを撫で回し始める。同じようにイルカも指を動かした。
 ヤマトの指は性感の為には動いていなかった。同じように動かすイルカにはそれが分かった。それは只、人間というものを確かめる為であった。皮膚と、その下の柔らかい肉、眼球や毛髪、人間を構成するものの一つ一つを丹念に確かめていた。
 イルカはヤマトの暗闇を思って胸が痛んだ。イルカには誰かをまるで観察するみたいに触れた経験はないし、そうしたいと思ったこともない。愛おしい人の隅々まで知りたいと思ったことはあっても、それは観察では決してない。人が人に触れる理由はそんなものではない。そんなものであっていい筈がない。

 激情のままに、背中に手を回してヤマトの身体を引き寄せた。
 裸の胸が触れ合う。女のように柔らかい肉がなく、筋肉や骨が直接ぶつかり合ったが、触れる皮膚はそれでも温かく心地が良い。隙間を少しも作らないように力を込め抱き締める。密着すると安心感が湧いた。
 そう、ただそれだけなのだ。心地良い、安心する。それだけが触れる理由になる。イルカはそう思う。
 しばらくすると、強張ったヤマトの身体が僅かに弛緩して、腕をイルカの背へと回した。きっと少しは心地良いと思ってくれているだろう。

 抱き締め合いながら、頭を少し垂らして頬を首筋につけた。ヤマトも同じようにする。ヤマトの押し殺された呼吸を感じた。きっとヤマトもイルカのそれを感じている。
 そっと手を動かして、盛り上がった背筋の辺りを撫でる。ヤマトもそうする。
 下から上へと指先で背骨を撫で上げる。柔らかく手の平をくっつけて撫で下ろす。項に片手を置き、指先で髪の生え際を擽り、もう片方で脇腹を撫で擦る。全てヤマトも同じようにした。
 触れることと、触れられることを同時に体験する。二人は完璧に対等な存在だった。自分が感じたことを、相手も同じに感じているのだと思えた。

 深い溜息が漏れる。もうどちらが先にそうしたかなど分からない。
 触れ合った腰が熱くなりつつあることも恐らく同時に気付いた。
 緩やかに背で上下させていた腕を、腰骨の方まで下げる。互いの身体が跳ね、首筋に呼気がかかった。
 隙間なく触れ合わせている胸と同じように、下半身も押しつける。下穿きは穿いたままだったが、固くなりつつあったペニスが触れると、相手のそれも同じ状態であることが知れた。
 ゆっくりと腰を揺らし、擦り合わせる。布越しのじれったい快楽が、むしろ気持ちが良い。緩やかで、微睡にたゆたっているようだ。全身触れ合っていて温かくて心地良い。
 しかし押しつけた腰の中心が芯を持ち、起ち上がりかけると、ゆるゆるとした動きから、強く押しつけるようにするしかなくなる。やがてはごりごりと音がするかに固くなったお互いのペニスを擦りつけ合った。

 触れ合った裸の胸が滲んだ汗でしっとりと混じり合う。下半身もそうしたいと思うのは当然の欲求だ。お互い下着ごと引きずり下ろし、それぞれ足首に溜まった下穿きを蹴飛ばして脱ぎ、もう一度触れ合わせる。
 直接皮膚が触れて、互いの先走りの滲んだ先端を擦り合うと、熱い吐息が首筋を擽った。イルカも深く息を吐いてから、ヤマトの肩に唇を押しつける。これ以上声を殺すことはできないと思ったからだ。
 目を閉じて、無心に腰を押し付け擦り上げる。滲み出る粘着質の液体がその動きを助け、濡れた音を立てた。
「…は、……くっ…」
 荒い呼吸の中、喉の奥で詰まった声が上がる。どちらのものかは最早どうでも良い。二人でお互いの腰を両腕で抑えた。上下に動かし、育ちきったペニスで相手の根元から先端まで擦る。
「…あぁ……」
 吐息交じりの感じ入った声が互いの肩を濡らす。
 イルカは耐え切れずに、ヤマトの筋張った肩に噛みついた。

 途端、ヤマトに肩を掴んで押しのけられた。
 何故、と思って瞼を開けると、ヤマトの見開いた目が視界に入った。
「……汗が…」
 ヤマトが震えた声でそれだけ言う。そして寒さに震えるようにガタガタと歯を鳴らした。
 怯えているのだ。ヤマトの汗が、イルカの体内に入り込んで何かが起こるかも知れないことを。
 実際、何か起きる可能性は恐らくないに等しい筈だ。だが、そんなこととは関係ない。問題はヤマトがそれを頑なに恐れ続けてきたということだ。
 もう二十年以上も、たった一人でそういう恐怖に耐えてきた――その孤独と苦痛を思うと、心配のし過ぎだなどとは間違っても言えない。
「すみません…」
 イルカは謝って、もう二度とヤマトが恐れるようなことはしないと目で訴えた。
 ヤマトの方は見開いた目のまま、イルカの全身を食い入るように見つめていた。異変がないかどうか確かめているのだ。
 しばらくそれを受け止めてはいたが、やがてその痛ましい眼差しに耐え切れなくなって、始まりの時と同じようにヤマトを抱き締めた。あれ程熱く汗ばんでいた肌は冷え切っている。イルカは凍える人を慰めるように、小刻みに震える腕を撫でさすった。
 どれ程そうしていただろう。ふと、ヤマトの腕がイルカの背へと回った。
「イルカさん……」
 その腕もそう呟かれた声も、まだ震えてはいたが、触れ合った胸から聞こえる鼓動は落ち着いて、イルカと同じリズムを刻んでいる。もっとそれを確かめたくて、より強く身体を押し付けると、ヤマトも腕に力を込めて抱き締め返してきた。
 触れ合った全身の、一部分が兆し続けている。それはイルカだけではない。ヤマトも同じ状態だ。
「ヤマトさん……」
 イルカは呟いて、しかし、それ以外何も出来なかった。解放を、そして解放させることを望んでいたけれども、ヤマトが恐れるなら、これ以上のことは何もしなくて良い。
 苦しげな嗚咽染みた吐息がイルカの肩に当たった。やはり怖いのかも知れない。だからイルカはそっとヤマトの身体を離そうとした。

 しかし、今度はヤマトの方から手を伸ばしてきた。二人の間で固く芯を持つペニスをまとめて緩く扱く。
 イルカは歓喜の溜息を漏らす。身体的な快楽に因るよりは、むしろ、唐突に感じた、求められているという実感の為だった。
 イルカはそれをヤマトにも伝える為に、蠢くその手に自分の手を重ねて一緒に動かした。二人で声を上げるほど強く、重なる手の平と裏筋同士で擦る。そしてもう片手でお互いの背を抱き締め合った。
 求め、求められる。それは下半身から突き上げてくる鋭い快楽などより余程強く心を満たした。
 そう、きっとセックスは、その為にこそあるのだ。
 決してどちらか一方が与えるものでも、奪うものでもない。
 求め合うこと、必要とし合うこと。
 それを実感したいからなのだ―――

「――ッ、く…!」
 小さく呻き、二人でほぼ同時に吐精した。
 荒い息を吐いて、激しく上下する胸を合わせて抱き合った。
 力強い、余りにも力強い鼓動が聞こえる。生きている、生かしている証。誰でもない、その人個人を生かしている音だ。
――そうだ。
 それなのに、何故、不安に思うことがあるだろう?
 ヤマトの、その命は、強く鼓動するその身体は、イルカとこうなったその意思は、他の誰のものでもない。ヤマトだけのものだ。
「大丈夫」
 イルカはそう呟いた。何度も何度も呟いた。
 それは身体を寄せ合う前に躊躇ったのと同じく根拠のない無責任な言葉だったかもしれない。けれど、もうイルカは躊躇わなかった。間違ってなどいないと感じた。
 もちろん遺伝子がどうだとか、他人への影響だとか、そんなことは分からない。万が一にはそんなこともあるかもしれない。

 しかし分かったのだ。
 ヤマトは、ヤマトでしかない。化け物などでは、決してない。どれ程身体を作り変えられようと、それでも、その身体を動かせるのはヤマトだけだ。ヤマトの意思だけなのだ。それ以上、重要なことが他にあるだろうか。
 だから、イルカはただ大丈夫だと言い続けた。

 数え切れないほどそう繰り返した後、イルカは肩に触れる冷たい感触に気付いた。
 肩にはヤマトの額が押し当てられている。そこから、水滴が零れ落ちてくるのだ。
 ヤマトが、声もなく音も立てずに、泣いていたのだった。
「ヤマトさん…」
 イルカはヤマトの頭を支え、俯く顔を上げさせた。きつく閉じた瞼から、それでも後から後から涙が零れている。

 イルカは涙の流れるその頬を両手で支え、そっと触れるだけのキスをした。
 ヤマトは触れた途端、唾液が接触しないようにだろう、唇を引き結んだ。強く力を込められたその唇は本来そうあるべき柔らかさは全くなく、当然心地よさも感じない。長く触れていても、それは緩むことなく堅く閉じられている。
 しかし、ヤマトは涙を流したまま、体液の接触の危険性のあるその行為を止めずに受け入れていた。
 ヤマトが泣く理由ははっきりとは分からないが、イルカには、それが答えのような気がした。

 イルカは口付けながら、ヤマトを強く抱き締めた。その身体はもう、震えてはいなかった。






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