細い二日月が浮かぶ、暗い夜だった。
 イルカがふと感じた気配に目をやると、闇がそこに立っていた。

 暗夜に溶け込む黒いマントを被っている。月影が差すと、猫を模した白い面だけが浮かびあがった。
「ヤマトさん…?」
 呼びかけると黒い影が僅かに動いた。間違いない。
 イルカはそっと近寄ってみる。影は逃げなかった。それどころか、面を取り、顔を晒して見せた。やはりヤマトだった。
 イルカが探るように見つめると、ヤマトは目を細めてそっと笑った。
 そう、確かに、こちらを向いて笑った。しかし、その目は何も見てはいなかった。
 闇に紛れる黒い瞳は何の光も映していない。
「ヤマトさん」
 イルカは思わず、もう一度、呼んだ。呼ばなければいなくなってしまいそうだった。その場から立ち去るという意味ではなく、この世から掻き消えてしまうような気がしたのだ。
 ふと気がつくと、ヤマトがそこに立っていたことも、知り合いだということも、あるいはヤマトの存在そのものも記憶から消されて、イルカはずっと一人でここにいたのだと思いこまされしまう。そんなことが起こりそうで怖かった。

――まるでカカシのように。



 カカシとの奇妙な関係が始まったのは、やはり今日のような暗い夜だった。
 何も映さない透明な瞳で、カカシはイルカを抱いた。
 完全に同意の上ではなかったが、抵抗もしなかったので無理矢理という訳でもない。行為も、じれったい程に優しく穏やかなものだった。
 正直に言おう。そうなった時、イルカは嬉しかった。
 もちろん行為それ自体は、イルカが男として望む道から大きく外れていたし、気持ちの良いことばかりではなかった。
 だがしかし、これでやっと、カカシに何もしてやれない無力な日々が終わるのだと思えば、どうということもなかったのだ。
 イルカはずっと、カカシの物言わぬ孤独な背中を眺めてきた。そしてどうも、カカシも、イルカを意識しているのではないかと思っていた。カカシの胡乱な瞳は、イルカの支えを必要としているように見えた。しかし確証も勇気もなく、カカシの方へ踏み出すことはできなかった。
 それを、カカシの方から歩み寄ってきてくれた。ついに自分は、カカシの力になってやれるのだと、イルカにはそれが嬉しかったのだ。

 だがしかし、それは間違いであったことがじきに分かった。
 カカシはそれからもイルカの部屋を訪れ、食事をし、酒を飲み、時折セックスをした。しかしそれらは必ずイルカの負担になることのないような形が取られた。
 食事や酒もカカシが自分で持参し、片付けもする。セックスの後始末も完璧だった。だからイルカは何もすることなく、ただ普通に生活しているところに、カカシがやってきて、知らぬ間にいなくなっている、というような感覚であった。
 カカシは、イルカに何も言わず、イルカに頼らず、ただ独りで生きていた。以前と何ら変わらなかったのだ。
 唯一変わったとすればセックスだが、それもカカシはイルカにひたすら奉仕し、イルカが何かすることを止める。イルカだけ終わらせて、カカシは射精しなかったことさえある。完全に与えるだけの行為だった。イルカはそれをただ甘んじて受け入れていただけだ。

 カカシはイルカに何も言わない。何も求めない。何も押し付けない。何も背負わせない。
 それが何故なのか、イルカには分からない。
 ただ無性に悲しかった。
 いつか、イルカが気付かぬうちにかき消えてしまうような気がして、酷く怖かった。


 イルカは、闇夜に溶けてしまいそうに佇んでいるヤマトに、それと同じ感情を持った。
 いや、同じではない。
 イルカは、強い怒りを感じた。
 何一つ言わないくせに、何故、気付いてくれと言わんばかりに見つめてくるのか。その目には何も映さないのに。イルカを締め出すのに。どうせ何も求めないくせに。何故。
 そうして気付いた時にはイルカは強くヤマトの腕を掴んでいた。
 ヤマトは目を見開く。イルカはじっとその目を見つめた。
 求めてくれれば、何だってする。吐き出してくれたら、どんなことも受け止める。そう伝えたかった。
 その目に映してくれさえすれば――

 そう願ったイルカに、ヤマトの目は応えた。そうっと忍び寄るように少しずつ深みを増し、焦点が合う。
 そうして初めてイルカと本当の意味で目を合わせると、ヤマトは不意に泣きそうに顔を歪めた。それから、右手を伸ばす。
 しかし、イルカの頬に触れようとした時、その手は火か刃物にでも触れたかに飛び退いた。それでも下ろされることはなく、迷うように中空を漂う。
 力なく緩く曲げられたその指は、頼りない赤ん坊のそれを思い起こさせる。縋られているということに、そしてそれを喜んでいる自分に、イルカは気付いた。自分は押し付けられる訳ではない、進んで受け止めるのだ。
 イルカは、その手を取り、握り締めた。ヤマトは腕を引いてそれに抗ったが、その力は弱弱しかった。だから逆にイルカはより力を込める。逃げて欲しくなかった。
 ヤマトは緩く抵抗しながら、幾度も首を横に振った。イルカにはその意味が分からず、何故と目で問う。
 するとヤマトは、水面で喘ぐような苦しげな仕草で呼吸した後、それに答えた。
「僕は化け物です。ヒトに触れれば、何が起こるか分からない」
「そんな――」
 イルカはそのまま絶句した。ヤマトの出生、そして彼だけが遣う術については、里の者の一部では公然の秘密となっている。イルカも詳しい経緯は知らずとも、大蛇丸の仕業であることと、初代火影様の遺伝子によるものであること位は知っていた。ヤマトはそれを言っているのだろう。故に決して触れてはいけないのだと。
「だから……」
 ヤマトは言って、イルカの手を離そうとする。
 が、イルカはさせなかった。触れてはならぬと言いながら、ヤマトは一度は手を伸ばしたではないか。その手を、もう誤魔化させる訳にはいかなかった。
 握った手を引いて、自分の家へと導く。そして、ドアを閉めると同時に、ヤマトを抱き締めた。
 驚いて身じろいだヤマトの身体を、力を込めて閉じ込める。
「――本当は」
 どれ程経っただろうか、やがて、呼気に紛れるように微かな声でヤマトが言った。
「触れたかった……ずっと」
 そしてヤマトを抱く腕の力と同じ強さで、イルカを掻き抱いた。

 触れ合ったヤマトの身体は微かに震えていた。
 それは快感でも緊張でもなく恐怖によるものだった。暗部一の使い手と呼ばれ、成熟した冷静な大人である男が、まるで子どもが故なく闇を恐れるように、理性以外の所でひたすら怯えている。
 イルカはそういう子どもにかけてやれる言葉を知っていたが、しかしヤマトという男にかけられる言葉は持っていなかった。どんな言葉も、ヤマトの恐怖を覆すことはできないし、薄めることさえできない。ヤマトの過去も遺伝子も、それによって引き起こされる未知の恐怖も、否定できないどうしようもない事実であるからだ。
 無責任に大丈夫などと言って慰めた気になるのは簡単だった。しかしそれができなかったから、こうして身体を寄せることになったのだ。言葉では伝えられないから。
 イルカはただ黙って震えるヤマトの身体を抱き締めた。






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