「罠」
(ワンドロお題「罠」)「あ、そうだ」
夕食後の団らん中のことである。カカシが小さくそう言ったかと思うと、ハガキとペンを持ってきた。
「商店街で貰ったの。温泉旅行が当たるんだって」
イルカが覗き込むと、ハガキには『一等 火の国温泉ご招待 一組二名様』とあった。
「当たったら一緒に行こうね」
言いながら、カカシが住所を書き始める。
イルカは微笑んだ。
先代火影が見知らぬ人に居所を知らせてしまっていいのか、とか。そんなに簡単に旅行に出られる身分でもないのに、とか。そういうのってまぁ当たらないだろうなぁ、とか。現実的な指摘はいくらでもできたが、全て呑み込んで「いいですねぇ」とだけ言う。
きっと実際どうなるかなんて、カカシだってどうでもいいに違いない。一緒に温泉、という夢を見る、この時間が楽しいものなのだ。
いくらでも高級温泉宿に泊まれる金と地位があるというのに、懸賞なんて庶民的なものに嬉々としてペンを走らせているカカシが妙にかわいらしかった。丸まった背が、まるでお絵かきに夢中になっている幼子のようだ。イルカは笑みを深める。
そんな彼を横目で見ながら、洗濯物を畳むことにした。それらは昼間カカシが庭に干してくれていたものだ。ここしばらく家事は彼に任せきりで、今日の朝食も夕食も彼が作ってくれた。アカデミーで行事や問題が次々と重なり、イルカが多忙を極めているせいだった。元里長にこんなことばかりさせて、と思わないでもなかったが、正直有り難くて甘え続けている。
しかし流石にそろそろ休暇を取らねば、とイルカも考え始めていた。遮二無二働けた若い頃とは体力も立場も違う。体力はまだ何とかなるにしても、立場の方は考えねばならない。上が休まねば下の者も休みづらかろう。
それに近頃は丸一日の休日もない上、残業続きで家には寝に帰るようなもの。カカシとは家より職場で会うことの方が多く、ゆっくり会話もできていない。今夜夕食を共にできたのだって久しぶりだ。同じく仕事人間のカカシ相手だから理解してもらえているものの、世間一般の恋人や夫婦だったならとっくに愛想を尽かされているだろう。
おひさまの香りのするタオルを手に、イルカは改めて、文句一つ言わず仕事に専念させてくれるカカシの有難さを噛み締めた。
「――ねぇ、イルカ先生?」
不意に、思いがけず真剣な声がイルカの手を止めた。
顔を上げてみると、さっきまで楽しそうだったカカシの表情が難しげなものに変わっている。
何事か、とイルカが驚いていると、彼は眉をひそめ、
「俺の職業って……なに?」
と言った。
見ると、ハガキの『職業』の欄の上でペン先が止まっている。
「六代目火影……はもう引退したわけだし……なんだか当選させろってプレッシャーかけてる感じにもなるじゃない?」
イルカは吹き出して笑った。真面目な顔で何を言うかと思えば。
「先生はいいよねー、教師とかアカデミー勤務とか書けるもの」
拗ねたようにカカシが唇を尖らせる。
そんな反応もおかしくてまた笑ってしまったら、「ちゃんと考えてよ」と怒られてしまった。
「じゃあ忍者、でいいんじゃないですか?」
「えー任務にも出てないのになぁ」
カカシは唸りながら、すっかり止まってしまったペンを回し始めた。
「うーん、主夫……ってほど家の事やってる訳じゃないし……」
「そんなことないですよ、本当に有り難いです」とイルカは真剣に答えたが、カカシさんが主夫! というなんともそぐわない言葉に笑いが止まらない。
こういう何でもない会話に飢えていたのだろう。楽しくて仕方がなかった。
近頃柄にもなく愛想笑いばかりしていた顔面の緊張が、本物の笑みによってほぐれていくのを感じる。平気だと思っていたけれど、やっぱり自分は疲れていたんだなとイルカは気付いた。
昔ならこのまま無理をし続けて潰れていたかもしれない。だが今はこうしてカカシがそばにいて、さり気なく助けてくれる。きっともうイルカにとってカカシは、なくてはならない存在になっているのだ。
もっと大切にしてあげなくちゃな、とイルカが決意していた、その時。
カカシの指先でくるくる小気味良く回っていたペンが、ぴたりと止まった。
「わかった――ヒモだよ」
「は? ひも……?」
咄嗟に、新聞の山を束ねる紐のイメージが思い浮かぶ。古紙回収の日はいつだっけ? そんなこともカカシさんに任せっきりにしてしまったなぁ。イルカはぼんやりとそんなことを思った。
多分、ちょっと嫌な予感がしたせいかもしれない。
「だってそうじゃない? 昼間あなたが仕事してる間フラフラして。代わりに夜はベッドであなたを悦ばせて。ま、ソッチは最近ご無沙汰だけど……。でも、ね? ピッタリ。これはヒモってやつでしょ」
カカシが嬉々として語りながら、ペンを持ち直した。
反論する間もなく、とんでもない言葉が書かれていくのが見える。それは一際大きな大きな字だった。
「職業、イルカ先生の、ヒモ……と。完璧!」
呆然とするイルカの脳裏に、商店街の人々がヒソヒソと噂する姿が思い浮かんだ。
『先代様、ヒモになったんですって』『まさか』『いやらしい』『あの先生のねぇ……』
外聞が悪すぎる。もう外を歩けない。
いや、百歩譲ってイルカの方はまだいい。
問題はカカシの方だ。
里一番の忍びであり、全ての里民の父であった先代火影が、今やヒモ。かつて千の技を持つと恐れられた凄腕が今、使えるのは寝技だけ……。
などなど、こんなとんでもない噂が他所で流れてしまったら、木ノ葉の里の信用は失墜するに違いない。
さっそくポストへ……とカカシが立ち上がる。
はっと我に返ったイルカは、その手から慌てて応募ハガキをひったくった。
そして、ぐしゃりと握りしめて叫んだ。
「ああもう! 分かった、分かりましたよ! 休暇とりますから、行きましょう温泉! 自費で!」
カカシは、両目を見開き――
「やったぁ!」
と、満面に笑った。
そしてもはやハガキには目もくれず、どこ行きます? とかなんとか言いながら、どこからともなく名湯ガイドブックをさっと取り出す。それは、ところどころに付箋がついて、よく読み込まれた様子であった。
イルカはがくりと項垂れた。
――罠だった……。
そりゃ途中から薄々気づいていたが。
しかし、怒ろうとも旅行を止めたいとも思わなかった。
きっとこれは、働き過ぎのイルカを休ませる為の"優しい罠"だったのだから。
溜め息を吐きつつ、素直にカカシに感謝しようと口を開く。
と、楽しげにガイドブックをめくるカカシが呟いた。
「やっぱり人がいない露天風呂付きの離れの宿がいいなぁ」
イルカの脳裏に、一抹の不安がよぎる。
――"やさしい"……罠? だよな? "やらしい"、ではないよな……?
「六校の家 風呂」
カカシさんが風呂に入っている間、俺はリビングで仕事を片付けていた。
これは日によって仕事ではなく、家事だったり、ただくつろいでいたりするが、ともかくカカシさんが先に風呂に入ることが多い。その後で俺が入り、そのまま大抵は風呂掃除を片付けてしまう。
共に暮らすようになってから、いつの間にか習慣化したことの一つだ。
俺とカカシさんが暮らすこの家を建てたのは、教頭就任から二年程経った頃である。
彼と人生を共にしようと決めた、素晴らしい転機であったと思う。
しかしこれは今だから言えることだが――俺はぶっちゃけそれどころじゃなかった。
まだまだ慣れない業務に追われている頃で、忙しかったのだ。
家を建てる為の諸々を考える暇などなかった。しかし決定しなければならないことが次々に押し寄せてくる。
屋根と外壁の色? そんなのは何色でも暮らせる。蛍光ピンクだったり七色に光るだとかだったら、流石に帰る度ちょっと目が痛いかもしれないが、それだって最悪目を瞑って家に入ってしまえばいい。
廊下の床の素材? 逆に好みとかあるのか? 異常にツルツル滑る等でなければ何だって良い。というかなんだったら異常に滑る床なんて忍びの鍛錬として丁度いいかもしれない……。訳がわからなくなった俺はそんなアホなことまで考えた。
だがなんと、家は無事に建った。もちろん屋根が七色に光ったりしない、床も滑らない。落ち着く、素敵な家だ。家主の一人たる俺が限界だったとは思えない出来だった。
それはひとえにもう一人の家主、カカシさんのおかげだ。
俺より遥かに忙しい火影業をこなしながら、ばっさばっさと懸案事項をなぎ倒していってくれた。
そもそもカカシさんは以前から理想の家について考えていたそうだ。土地はここ、間取りはこう、と確固たるアイディアがあった。概ねその通りの家になったと思われる。
つまり家を建てるにあたって俺の果たした主な役割は、「いいですね!」と元気にお返事することであった。
もはや丸投げ状態だ。
しかしそれをカカシさんは、「初めての共同作業♡」と呼んで喜んでいた。よくわからない。アカデミー関係で一緒に仕事してきたのはカウントされないのだろうか……まぁカカシさんが楽しそうだったので良しとする。
そんな中、唯一、俺がこだわったものがあった。
湯船だ。
風呂好き界隈憧れの、ヒノキ風呂である。
木製の湯船はこまめなメンテナンスが必要だということは分かっていた。幼い頃実家がヒノキ風呂で、父が手入れをするのが大変そうだったのを覚えていたからだ。故に多忙な俺達には荷が重いかと思い、お掃除簡単な最新のシステムバスにすべきだと考えた。
が、憧れと郷愁は捨てきれず、迷った末、カカシさんにおずおずとヒノキ風呂を相談してみた。
即採用だった。一も二もなく、とはこのこと。なんなら「当たり前でしょ」くらいの態度だった。
そのあまりの軽さに、俺は思わず、ヒノキ風呂が如何に日々の手間がかかるかを熱弁してしまったくらいだ。もうほぼ悪口を言った。憧れなのに。その節はすまん、ヒノキ風呂。
なにはともあれ、結局は最高の風呂になった。
俺が職人さんと湯船の打ち合わせをしている間に、カカシさんがチャチャッと壁だの床だのその他の部分を決定。なんと更に裏庭を作り、大きな窓から見えるようにしてくれた。家にいながら露天風呂気分を味わえる。最高だ。
懸念していたヒノキ風呂の世話も、今のところうまくやれている。
どんなに忙しくてもこれだけはやる気が出るのだ。何故なら最高の風呂なので。
せっせと掃除をする俺を見て、カカシさんは「イルカ先生はマメだねぇ」と感心してくれるが、こんなのは当たり前である。もう一度言うが、最高の風呂なのだから。
清潔で広い浴室に、橙色の柔らかい灯りの中、漂うヒノキの香り。足を伸ばして肩まで浸かり、ぼんやりと裏庭を眺めれば、どんな疲れも吹っ飛んでしまう。
最高、以外に言う言葉は、俺には見つけられない。そんな風呂である。
――ぱしゃん、と湯が跳ねる微かな音がした。
忍びの耳でようやく聞こえる程度のそれは、湯船に浸かった者が身動ぎしたり、肩にかけ湯をしたりする時の音だ。
俺は手を止め、耳をそばだててその音を聞いた。
俺が昔住んでいた中忍寮にカカシさんが入り浸っていた頃、そんな音はあまり聞こえてこなかった。もっぱらシャワーの音だけがしたものだ。
カカシさんは元々、所謂カラスの行水だった。
身体を清めることは匂いを消すべき忍びとして必須の義務としており、また身体を温めるメリットや重要性は知識として理解していたので、風呂を避けても嫌ってもいなかった。しかし、決して好いてもいなかった。
それは風呂だけではない。以前のカカシさんにとって生活のほとんどがそうだった。料理する、食う、寝る、掃除する。そういう、生活するということが、何か儀式めいた、決まった手順に従って半自動的に行われているものだったように思う。
全て、やるべきことだからやる、という風に見えた。やりたい訳でもないが、嫌々やっているわけでもない。そして厭わない代わりに、楽しんでもいなかった。
ただ小器用で、物事を追求する質なので、結果的に誰よりもきちんとした、合理的で丁寧な暮らしになっていた。
そしてその暮らしは、肉体と精神、チャクラを安定させた。きっとカカシさんに意図も自覚もなかっただろうが、つまり、それは忍びとして生きるのに最適化された生活だったのだ。
それが変わったのはいつ頃からだっただろう。
数十分経って、俺の仕事が終わってしまっても、カカシさんはまだ出てこない。こうやって長風呂なんてするようになった。
うちに常備してある多種多様な入浴剤は、カカシさんが買い集めてきたものだ。温泉地に外遊に行けば、必ず湯の花をお土産に買ってくる。
元々は俺がしていたことを、いつの日からか、カカシさんの方が積極的におこなっていた。
きっと、住む家を共にするというのは、こういうことなのかもしれない。俺は近頃そんなことを思う。
こうやっていつの間にか習慣が似ていき、好むものが同じになっていくのだ。まるで混じり合うように。
まぁただ単に、最高の風呂なので必然的にこうなってしまったということかもしれないが……。なにしろ最高の風呂なので……。
「――イルカ先生、俺は人生の真理を得ました」
感慨に浸っている内に、カカシさんが風呂から上がったらしい。
謎の言葉を聞いて振り向くと、
「面白い本は風呂で読むな、ってことです」
眉をへにょりと八の字にして、カカシさんはそう言った。
「一冊読んじゃった……暑い……」
その真っ赤な顔と、ふやけてシワッシワの手足を見て、俺は声をあげて笑い、思う。
かつて忍びとしてしか生きられなかった人に、こうして人生の真理さえ得させてくれる、やっぱり最高の風呂だと。
