「告白をしたいのです」
声が、教皇を祈りの没頭から引き戻した。
重く、深い声だ。知らない筈、だが覚えがあるようにも思う。遠い雷鳴の轟くような。海の底の地鳴りのような。
一体誰か、と瞼を開け、跪いた姿のまま振り向く。
うち仰いだ先には、美しい男が立っていた。
蝋燭の揺れる灯だけの薄暗い中にあって、白い肌と銀色の髪が瞬くように煌めいている。教皇は、自分はまだ祈りの中にあるのかと疑った。まるで絵画の中から抜け出してきてしまった大天使を目にしているように思えたからである。
それは圧倒され、畏怖を感じさせる美であった。だが同時に、不可思議なことに、よく見慣れてさえいるような懐かしさも感じる。
修復中のあの名画や、遠い国の大聖堂の壁画、そして幼い頃を過ごした修道院のステンドグラス――かつて仰ぎ見たそのどれもに、この男の姿が描かれているような気がした。
「聖下の祈りを妨げるとは――」
隅で控えていた者が慌てた調子で言った。
教皇は、はっと男に見惚れていた自分に気づき、立ち上がって首を振る。
「……いや。わたしは構いません。お聞きしましょう。さぁ、こちらへ」
告解室へ導くことに、迷いはなかった。
男の身なりは大層立派で、身分のある者であることは確かだが、素性が知れぬ者であることもまた確かだ。教皇として身の安全を図ることも仕事のうちとすれば、他の者に任せるべきなのかもしれない。
だが、彼がこちらを見る目はあまりに切実だった。こんなにも己だけを見つめ、決して逸らされない目をどうして無視できようか。救いを求める魂を見捨てるようなことは、神の僕として、いや、ただ人として、できなかった。
狭い部屋の中にそれぞれ収まる間も、小窓の格子に遮られても、男の眼差しは一心にこちらに向けられている。
しばらく互いに何も言わず、ただ見つめ合う。静かだった。自分たちの二つの微かな呼吸音だけが聞こえてくる。不思議とそれ以外何も感じなかった。この小さな薄暗い小部屋が世界の全てであって、そこに二人きりになってしまった錯覚を覚えた。
やがてすっと、息を吸う音が、幾度か聞こえた。合わせて男の薄い唇が、開いては閉じる。何かを言おうとして、しかし言葉が見つからないという様子だった。
そのいじらしい姿に、錯覚は霧散する。教皇は己の使命を思い出して微笑んだ。
「大丈夫。ゆっくりで構いませんから」
「すみません……。何をどう話せば良いのか……ずっと、考えていた筈なのに」
ため息交じりの低い声が嘆く。じっとこちらを見る目が切なげに細められた。
「そういう方はよくおられますよ。思うままにお話ください」
落ち着かせるよう、ことさら穏やかに声を掛けると、こくりと頷く。男は立派な身なりや深い声に反して、まるで産まれて間もないかのように、どこか幼気であった。
「では……人間の話をしても良いですか」
「ふむ、我々、人間についてですね」
「はい。聖なる書には、神が己の姿に似せて、人を作った、と」
「その通りです」
「人が猿から進化したのだという説については?」
なるほど、男は学者か何か、と考えた。浮世離れしたものを感じるのはその所為であろう。学問と信仰との矛盾に苦しんでいるのだろうか。話の核が見えてきたようで、教皇は微笑んだ。
「もしもその通りだとしても、神がそのようにご意図なさった、とも考えられますね」
男はその時初めて、ほんの一瞬視線を逸らした。何かを思い出すような遠い目が瞬く。
「分からない……そうだとしたら、赦してもらえるだろうか」
「神の声に心を開いて。慈しみを信頼するのです」
男は希望と恐れに迷う心を露わにした顔で、しばらく黙っていた。しかし教皇が根気強く待ち続けると、やがて思わずといった風に、唇が力なく開く。そして、
「遠い、昔のことです――」
男はそう、ゆっくりと語り出した。
□
――その昔、世界は完璧でした。
足りないものは何もなかった。平穏と調和が隅々に行き渡り、全てが、静かにそこに在りました。在るべきものが過不足なく在り、完全に満ち足りていた。それが永劫続くと思っていました。
しかしある時不意に、世界は、こちらを見つめる、とある眼差しに気付きました。
世界はその眼差しの元を追わずにはいられなかった。それがあまりに真っ直ぐで、偽りなく優しく温かく、一心だったからです。
そうして世界は、輝く一つの魂を見止めました。
その魂は喜びと愛と、また哀しみと苦しみと憐れみとで満ち満ちていた……真っ当な、美しい魂です。
そういう魂が世界を見つめては、そこに在るものに美を見出しました。喜びと、残酷さと哀しみを見出しました。
その時から、ただ単にそこに在るだけだったものたちが、美しく畏しく、二つとない尊いものとなりました。
風が、水が大地が、木々が、生が意味を持ちました。彼が世界に、意味を与えてくれたのです。
そして世界は、恋というものを知りました。
それはまるで逆向きに落ちるようでした。世界はもう完璧ではいられなかった。全てがそこに在る筈だったのに、求めるものが出来てしまった。どうしても足りないものが生まれてしまった。調和を失い、不完全になりました。
彼の眼差しは、世界をこの上なく美しくした。と同時に、埋め難い空虚を生み出したのです。
世界はもはや満ち足りず、渇望を抱きました――あの魂と、見つめ合い、語り合い、触れ合いたい、と。
だから、海に在るべきものが大地を踏みしめた時、世界はそれを見逃してやりました。四足のものの半分の足が地を離れた時も、火や言葉を手に入れた時も、在るべきであったことが変わってしまう瞬間の全てを、止めませんでした。
その変化はいつも善きことであったとは言えなかった。新しいものが生まれたとしても、永久に絶えてしまったものも多かったのです。
それを分かっていても、世界は何もせずただ眺めていました。彼らが変わっていくままにさせた。いつかやってくる時を、待っていた。
そうして長い長い時間が流れて……ようやく生まれたのが、ヒトでした。
感情を表す瞳と、言葉と、滑らかな肌と、自在に動く手足を得たもの。
つまり、互いに見つめ合い、語り合い、触れ合えるようになったのです――世界が、遠い昔、そう願った通りに。
ヒトがヒトとなったのは、ありとあらゆるものが変わってしまったのは、そういう訳があったのです。
そう、ただ恋に落ちて、愚かになった者の願いを叶える為に――
□
「――これは、罪なのでしょうか」
そう苦しげに言ったところで、男の声が途切れた。
そこでようやく教皇は、長く詰めていた息を吐き出す。強ばった体が震えていた。
男が語ったのは、荒唐無稽で、事実として真剣に捉えるべきものではない筈だった。
しかしそれは笑い話でも、おとぎ話や例え話でも、決してなかった。教皇にはそれが分かった。
何故なら男が話す間、眼前に、“全て”が広がっていたのである。実際には数分であっただろうに、気が触れる程の永い時を過ごしたように感じられた。
原初の海の幻がまだ揺蕩っている。振り払おうと、緩く頭を振った。その間も、男の一心な視線を感じた。
目眩を覚えながら顔を上げると、変わらずこちらを見つめ続ける灰青色の瞳があった。
教皇は、はっと気づく――それは遠いいつかの日に、美しさに打ち震えながら仰ぎ見た曇り空の色だ。
この男を、知っている。
彼は、優しい夜の月影であり、遠くで降る雨の匂いのする風だ。澄んだ水面であり、大樹の木陰だ。夜闇を引き裂く稲光であり、冷えた大気を温める春の陽だ。
教皇が悠久の時の中で愛した全て――世界そのものであった。
「教えてください。罪なのでしょうか、俺が望んだことは」
冬の夜の風の音のように悲痛な声で言いながら、男の手が格子に触れた。その隙間からでも触れたいというように、不器用に健気に、長い指をこちらに伸ばしてくる。
「……どうか、俺を赦すと言って――イルカ」
神の御名でもなく、尊称ではない名を呼ばれ、イルカは衝撃に息を呑んだ。
その甘く、切ない響きは。懇願する指は。熱く、ひたむきな眼差しは――恋、と男が言ったものだ。
それが一心に己に向かっていることが、分かってしまったのである。
呆然と、イルカは男を見た。ただただこうして、イルカと見つめ合い、語り合い、触れ合う為だけに、全てを変えてしまった者を。
「主よ、嗚呼、お赦しください……」
まるで初めて肺呼吸をした時のように、苦しみに喘ぎながらイルカは囁いた。
そして多くの信者たちにゆるしを与えてきた時と同じく、片手を差し伸べる。しかしそれは全く違う行為だった。
神の御名によらぬ、イルカ個人の望みであった。
イルカは男の瞳を見つめ返しながら、遥か昔、己が切望したことについて思い出していた。
昔、水の中に在った時も、地を這うもので在った時も、曇り空を見上げるたび、小さく無力な自分を嘆いていた。
灰青色はいつも、美しくも、泣き出しそうに寂しげだったから。そっと抱き締めてあげたかった。その為の両腕が欲しいと、強く願ったのだった。
だからそう、きっとヒトになることを選んだのは、今この時を望んだのは、イルカの方なのだ――
震える指先がほんの僅か、触れ合う。
歓喜が、世界を貫くのを感じた。