森の中を二人で歩いている。
酷く暗い。木々が生い茂って重なり合い、空を隠している。
俺達は手を繋いでいた。俺の右手を、彼が強く握っている。
利き手を取られているのに、俺は何も感じない。こんな見通しの悪い所で、何が起こるか分からない所で、当然感じるべき危機感も不安も不快も、感じなかった。別にどうでも良かったのだ。自分の身も、彼の身も、守る必要がないのだから。今、こうして二人共に在る、この瞬間にならば。
やがて、木で出来た小さな小屋に着いた。作られたばかりで、樹皮の削られた木材が滑々と白く、生々しかった。
中に入ると、ベッドだけが一つ置いてある。矢張り白いシーツで、神経質に、大事そうに、包まれている。
手を繋いだまま、二人でそこに横たわった。目を閉じて、何も見ず、何も言わず、何も聞かず、ただ繋ぎ合った手の感触だけを感じる。短く切られた爪を撫で、指先の細かな切り傷の痕をなぞり、柔らかく湿った手の平を押し付け合う。
しばらくそうしてから、俺は目を開けて上体を起こした。
刻限だった。
横たわる彼に覆い被さり、口付ける。至近距離で彼が瞼を上げたのを見つめ、流れ落ちる髪を梳く。黒い瞳、黒い髪。それを見ながら、何故小屋もシーツも真っ白でなければならなかったのかを思い出す。
口付けを深くし、そっと手を離す。そしてずっと繋いでいた温もりが薄れない内に、それを彼の首へとかけた。
唇の中で、彼の舌が小さな反射と抵抗を示す。しかしすぐに戻ってきて、全てを俺に明け渡した。
だから今度は両手で首を覆い尽くす。そして強く力を込めた。
彼の身体が俺の下で細かく震えるのを感じる。全てを良く見る為に一旦唇を離して見下ろすと、彼は本能的、習慣的な抵抗を押し留める為だろう、俺の手の代わりにシーツを握り締めていた。俺は何故もう一本でも多く腕を持っていないのかと嘆き、せめて多く触れ合うように全身を押し付け、唇を合わせた。
がたがたと彼の身体が痙攣し始める。その振動も余さず感じ取るために俺はより強く身体を押し付けたので、ベッドが軋んで音を立てた。誰かがこれを見ていたら、激しい情熱的なセックスをしているように見えたに違いない。
唾液が零れていくのも気にせず、夢中で舌を絡ませ、吸い合う。しかしその内に彼の舌はぴんと伸びたまま動かなくなった。弄りやすくなったそれを、舐め、しゃぶり、強く吸い上げる。か細い吐息も全て舐め取る。
やがて彼は一つ大きな痙攣を起こし、目を見開くと、遂に身体を弛緩させた。その瞬間の一つ一つの動きを、あらゆる感触を、つぶさに見届ける。
冷静であった筈だが、大きく晒された彼の目の白い部分と真っ黒な瞳の対比は余りに鮮烈で、口付けを忘れる程だった。一心にじっと眺め、彼の最後の微かな呼気を感じ取ってやっと我に返り、唇ごとそれを吸い込んだ。
もう行かなくてはならない。
名残惜しみながら唇を離す。
起き上がり、彼を見下ろして、少し迷ってから瞼は閉じないでおくことにした。もしも万が一罷り間違って、俺が生きて戻って来ることになったとしたら、二人で一緒に閉じようと思った。
最後に一度だけ、彼の両手をシーツから奪い取って、握る。まだ温かく、しかし森の中での時のように握り返されることはなかった。もうそんな時は、永遠に来ない。
「貴方の所為だ」
俺は彼を見下ろして呟いた。
貴方が俺を許すから。俺に失えないものを作らせたから。
だから、こうするしかなかった。
俺が守れない所で、彼を失わない為には。
彼に俺が死んだ後の世界を見せない為には。
彼を、俺だけのものにしておくには。
こうするしか、なかった――
弛緩した彼のしっかりとした四肢や、投げ出された黒髪、焦点の合わない黒い瞳の前で、俺は、絶叫した。
自らの叫び声で、カカシは目覚めた。
森も、白い木もシーツもない。そこはイルカの家の寝室だった。
隣にイルカが寝ていて、緩く空いた唇からゆっくりとした微かな呼吸音がする。カカシは息を詰めてしばらくそれに聞き入った。
夢だったのだ。ようやくそう受け止めて、カカシは汗か涙か分からないもので濡れた顔を拭う。
それからそっとイルカの頬に触れ、掛け布の中から手を探り出して握り締めた。当然温かく、そして反射的なものだろうが、緩く握り返してくれた。カカシは深く安堵する。確かにこの人を失えない、と思う。どんなことがあっても。どんなことをしても。
見ていると、眠りながらイルカが少し笑った。
幸せな夢を見ているのだろうと、カカシは思う。自分のように不幸な夢は、イルカはきっと見ないに違いない。
イルカには、理解できないだろうから。カカシの、こんな執着は。ほとんど狂っている、こんな愛は。
だからイルカは、幸せな夢を見ているに違いない。そうカカシは思った。
その時、確かに、イルカは幸せな夢を見ていた――
カカシと二人で森を歩いている。
誰もそこには来ない、静かで豊かな森だった。その奥へ、深く深くへ歩いていく。
そうして一番奥に、大きな湖があった。
澄んでいるのに、いや、澄み過ぎているからか、何処が底か分からない。何処までも何処までも深く続いているように見えた。
カカシがその淵に立つ。イルカは後ろでその背中を見ていた。
しばらくすると、カカシが振り向こうとした。
刻限だった。もう行かなければならないのだ。
イルカはそう認識すると同時に、カカシの背中を両手で押していた。
ふうわりとまるで抵抗なく、カカシの身体が浮いて、湖に落ちる。ゆっくりゆっくり、沈み込んでいく。湖は順に、カカシの足を、胴を、手を、心臓を、首を、瞳を、髪を飲み込んでいった。最後に一筋の銀の髪が沈み込んで、彼は消えた。
何処までも深く、誰の目にも触れない所へ。
「貴方の所為だ」
澄んだ水の何処かの底を見下ろして、イルカは呟いた。
貴方が俺を信じるから。貴方が俺を受け入れるから。
でも、これでもう、彼を失う恐怖に耐えなくて済む。
いつか必ず訪れる、いつ訪れるか分からない別離を恐れなくて良い。
これで、彼は永遠に自分のものだから。
イルカはそう思い、静かに微笑む。
――そういう、幸せな夢だった。