膨らんだ蕾を抱えた桜が、重たげに気怠げに、俯いている。
強い南風がその枝を揺らし、イルカの視界を遮った。それでようやく、イルカは冷えた窓から手を離した。
イルカの教室の窓から見えるのは、図書室だった。校舎はコの字型だから、校庭を挟んで向かい側だ。相当視力の良い者が見て、やっと本棚や人の輪郭が分かるだろうかという程に、遠い。そこを、イルカはこの一年、目を凝らして見てきた。
「――部活、終わったんじゃないの?」
静かな声がして振り向くと、カカシが立っていた。
「何してるの?」
「ちょっと……」
首を傾げて覗き込まれ、慌てて窓へ向かい直す。イルカの見ているものを確かめるように、カカシが手をついて、窓に顔を寄せた。
滑らかな白い頬と指先が、イルカの視界を埋める。いつも、そうだ。カカシがいる方へ、イルカの目は引き寄せられる。傍にいる時も、ずっと遠くの図書室にいる時も。
「……寒いね」
窓が冷たかったのだろう、カカシは両手を擦り合わせた。長く細い指が重なり合う。何故かそれに息を呑むような衝撃を受けて、イルカは訳も分からず首を振った。
「嘘。寒いんでしょ」
カカシは微笑った。そして、すっとしゃがみ込む。
「タイツ履けばいいのに。膝、赤くなってる」
言われてイルカが確認する間もなく、カカシの指がそこに触れていた。白い指は思いの外冷えてはいなかったが、それとは全く違う理由で、イルカは身体を震わせた。
「冷たい? ごめんね」
違う、と言いたかったが、言えなかった。下を見ると、カカシが、イルカの足に顔を寄せていた。
「はたけ先輩…!」
それ以上はやはり言葉にならなかった。イルカの足に顔を付けたまま視線だけ寄こしてきたカカシの視線が、余りに真剣で、そしてまるで縋るようだったからだ。
「カカシって、呼んで」
温かい吐息が、乾いたイルカの膝を湿らせる。そして瞬きの後には、吐息ではなく、唇が触れていた。ちゅ、と濡れた音が教室中に響いたような気がした。
「なん、で……」
意味のない問いをしながら、カカシの頭がスカートの裾を持ち上げるのを見た。震え、ぎゅ、と目を閉じる。だがどれだけ強く閉じても、プリーツのたわむ姿が瞼に残った。
「きれいな足。健康的で」
声は僅かにくぐもっている。それが何故なのか考えたくなくて、イルカはまた訳もなく首を振った。そうする内に、吐息と唇の感触は徐々に上へと移動している。カカシの長い前髪が、固く閉じ合わせた腿をくすぐった。
「――カカシさん!」
耐え切れず叫んで、座り込んだ。足をぺたりとつけた床はひどく冷たい。止めていた呼吸を再開すると、新学期に向けて先日塗ったワックスの匂いがした。
「イルカ……」
カカシが、イルカと同じように床に座り直して、呟いた。顔を上げると、不安げな目がある。
「カカシさん……」
イルカは小さく言って片手を伸ばし、カカシの柔らかいカーディガンをぎゅ、と握り締める。
カカシがもう一度イルカの名前を読んで、ゆっくりと顔を寄せてきた。イルカも同じように、顔を寄せる。
並んだ机と椅子が、二人を覆い隠す。誰も見てはいない。
頭上の窓の外で、桜の枝だけが責めるように激しく揺れていた。
来月、あの花が咲く頃、カカシは卒業し、ここからいなくなる。
だけどこの足の冷たさと床の匂いは、きっとずっと忘れないに違いないと、イルカは思った。