外は細く雨が降っていたようだ。
その中を駆けてきたにも関わらずカカシは、乾いた空気の中に入り、忍服の重さに気付くまでそれを知らなかった。雨粒が余りに些細であった為に霧のようにしか思えなかったのだ。
脱ぎ捨てた服は何処も彼処も水を含んでいる。存外に多く降っているのだろう。
そう意識した所為か、雨音が耳についた。いつもと同程度の結界が張られている筈だから、思い込みか幻聴か、耳鳴りの類であるのかも知れない。だが、いつもの男の隣に横になると、ますますはっきりと聞こえるように感じた。
ぱたり、ぱたりと、規則的に、雨粒が地に落ちる軽い音がする。いやにゆっくりと、勿体つけるような響きがあった。
カカシは目を閉じて、外に立つ木々の新緑の葉の一枚を思い浮かべた。
その葉に霧のような雨が降り注いで、極細かい白点が葉全体を埋め尽くす。それが緩く曲がった葉の上で、重力に従い、葉先へ集まって、一つの粒となり、やがて地面に落ちる。落ちる先から、細かい雨が集まり、また落ちる。
ぱたり、ぱたり――そうやって延々と続く。
それを聞いていると、何とも和やかな眠りがゆっくりとやって来た。最早抵抗しようなどとは思えず、カカシは全身を弛緩させて投げ出した。
カカシの裸の腕が、やはり裸の、眠る男の肘と触れた。それは、男のさらりとした肌の感触や高い体温も分からない程度に小さな接触であったが、眠るには十分だった。そもそも、触れている必要もないのだ。ただ寝台に、その男が死んだように眠っているということが重要だった。それだけで、抗いがたい力が働いて、眠ろうと思える。その力は実に圧倒的であり、しかし不思議と柔らかな印象で、カカシを抑えつけるのだった。
そうして眠ったと気付かない内に、短い夢を二つ見た。
一つ目はまだ半ばは現にあった為だろう。ぱたり、ぱたりという水音が響いていた。
夢の中でそれは、血の滴りにすり替わった。目隠しをされていて何一つ見えないのだが、それが血であるということが何故か分かった。
血はカカシの右肩の付け根辺りから流れてくるようだ。感覚はなかったが、その辺りの太い動脈が切れていることをカカシは知っていた。血は肩からだらりと垂れ下がった腕へと流れていき、指先から床へと落ちていく。
ぱたり、ぱたりと、いつまでも血は流れていた。
本来なら、血はやがて固まり、長く流れ続けることはない。だからこれは、実は水なのだ。誰かがまだ血は流れていると錯覚させる為に水を滴らせている。これはそういう殺人方法だった。
カカシはこの方法を何処かで見たことがあった。流れ続ける血の滴りに恐怖させ、情報を引き出すのが目的の拷問の筈だったが、カカシが見た時には結局そいつは死んでしまった。
実際にはもう血は止まっているのにも関わらず、血が流れ過ぎたと信じ込むと、失血死してしまう。人間とはそういうものらしい。
ぱたり、ぱたり――水音が響く。カカシは、恐らく自分は死ぬだろう、と考えた。
トリックだと分かってはいても、カカシの心はまだ疑っていたのだ。何も見えない中で、滴っているのはやはり血なのではないか? 水だと思わせて安心させる、裏をかいた罠なのではないか?
結局、答えは出なかった。その真っ暗な夢は終わり、別の夢に切り替わったからだった。
その二つ目の夢では、カカシは幼子となっていた。
今はもう取り壊してしまった生家の前にいた。カカシは任務帰りのようで、身体はあちこち汚れ、戦闘中に破損し廃棄したのか、冬だというのにマントも着けていなかった。
冷たい大気から逃れるために急いで家の中に入った。だが、そこも然程温かくはなかった。むしろ期待していた分、拍子抜けして外よりも寒いように感じられた。
暖房器具は何一つその役割を果たしていないらしい。父は外出しているに違いない。いくら父が優秀な忍びだとしても、任務でもないのにこの寒さは耐え難い。
カカシはとりあえず風呂に入ろうと、廊下を進んだ。冷えた板敷きをつま先立ちで歩いていく。
すると、風呂の先の父の部屋に極微かな気配が感じられた。本当に、いるのかいないのか判断が難しい程に、感じ取れたのが奇跡のように、それは微かだった。
父は任務に出かける直前だったのだろうと、カカシは考えた。それだけが、この冷え切った家と、絶たれかけた気配の答えだと思ったのだ。
父の部屋の前までたった数歩であったが、カカシは逡巡した。そうしている間にも、つま先からますます凍えていく。ともかく風呂が恋しかった。父の部屋へ向けて「帰ったよ」と一声だけかけて、風呂へ入った。
充分以上の時間をかけて汚れを落とし、身体を温めた。何故かは分からないが、どうにも気になって、ほとんど執念か執着と言って良い程に、手の指先を執拗に洗い尽くした。ようやく満足してまた冷えた廊下に戻った時には、小一時間程は経っていただろう。
しかし、父の部屋からまだ微かな気配がする。今度はカカシも億劫がらずに足を向けた。ドアをそっと開けると、父がいた。
父は眠っていた。横たえられた身体は完全に弛緩しており、顔には表情というものが全くなかった。それは余りにも深い眠りで、そして無心であった。
「たった一晩でも良い」
カカシは不意に、父の言葉を思い出した。
「眠りたい、何もかも忘れて」
父はそう言っていた。
だからカカシは、父は遂にそれを叶えたのだと思った。冷え切った部屋で、たった一人で、その姿には何の喜びや安らぎも感じられなかったとしても、これが、父の望んだことなのだと、分かった。
「――アア、」
か細く吐き出した自分の声で、カカシは目覚めた。
目を開けて、数秒混乱した。自分が何処にいるのか分からなかった。やがて、いつもの暗闇の中で横たわる自分を発見したが、それでもまだ混乱は続いた。
雨は上がったのだろう。カカシの鼓動が煩いからではなく、雨の音はもう聞こえてこない。だが寝入る前と同じく、腕が男と触れている。それを意識すると、もう一度眠れるような気がした。
目を閉じて、全てを忘れようと試みる。しかし、どうしてもそれができなかった。
余りにも、静かだった。
カカシはゆっくりと身体を傾けて、眠る男の方へと腕を伸ばした。投げ出されている男の手を取り、自分の方へ持ってくる。それはカカシに全てを任せていて、ずっしりと重かった。
その重みを、カカシは自分の首の上へ導いた。両手を開かせ、首全体に巻き付ける。カカシも同じようにした。男の首に手をやり、そして締め付ける。
互いの気管と動脈が押し潰されて、正常な機能を失い、やがてその先で訪れるものについて考えた。それは和やかで穏やかであって欲しいとカカシは願ったが、しかし、きっとそうではなく、ただひたすらに無心であろうと予測できた。
それでも、為す術はない。カカシは目を閉じようとした。
だが、その時、不意にその目元に光が射した。
それはこの暗過ぎる部屋でのカカシにとって有り得る筈のない 、恐ろしく不可解な出来事だった。急に強い光を浴びた為に、目は痛み、一時正常な視界は失われた。
それでも原因を探そうと見上げると、光源は窓だった。濃い藍色のカーテンが風に揺れている。昇ったばかりの淡い陽がちらちらと見えた。
カカシと眠り続けていた筈の男しかいないこの部屋で、一体どうして窓が開いているのか。一瞬考えて、しかし如何でも良いことだと投げ出した。
顔を下げると、男の顔がはっきりと見えたからだ。初めて見た男の髪の色は、夜の闇よりも濃い黒であったが、陽を帯状に反射して微かに光っていた。アア、とカカシは呻き、男と共に目覚める為に、もう一度目を閉じた。
すると男の腕がカカシの肩を抱くように包んだ。同じように、カカシも男の肩へ手を回した。温かかった。生きている、とカカシはしみじみと思った。
(了)
というイルカセラピーでしたとさ。