それから二週間、その奇妙な夜のことを、特に気にすることもなかった。
カカシにはこなすべき任務があり、考えるべきことがあった。あれは日々通り過ぎていく不可思議な出来事の一つに過ぎず、既に終わったことだった。
ところが、珍しく里内で夜を過ごすこととなった時、唐突に、眠る男の高い体温を思い出した。任務のない夜にすることなど思い付かず、早々に横になったのが悪かった。いつもなら身体を休める為に強制的に眠るようにしていたのだが、寝入る時間があると思ってそうしなかったのだ。
風の強い夜であった。西から吹く風に煽られた厚い鈍色の雲がよろよろと月にしがみ付く。闇が深くなると益々あの奇妙な部屋が思い浮かんだ。
結局明け方近くなって立ち上がった。

前回と同じ、医療忍らしき女が迎え入れてくれた。連絡もしなかったのに、分かっていたと言わんばかりに冷静な様子であった。
「もう夜も明けますが」
言いながら、先に立って例の部屋へと歩く。狭い小屋だ。玄関から入って、女の座っていたらしき足の低い椅子の横を過ぎるとすぐドアである。
どうぞ、と声に出さずに促された。
カカシはドアを開ける。中は矢張り異様なほど暗い。闇に強い忍びでも、目が順応するまで急には見えない。しかし開ける前からはっきりとした人の気配があった。誰かがそこで眠っている。
ふと気が付くと既にクナイに手をやっていた。女は顔を傾けるようにしてそれを見ると微笑み、低く囁いた。
「良く眠っております」
言われずとも、気配からしてそうだった。それは分かっている。しかし誰かの潜む暗闇に近寄ると警戒してしまうのは習慣だ。忍びなら誰でも多少の差はあれどそうだろう。
女は笑みながら、カカシに気を遣ったのか、くるりと背を向けて小屋を出た。前回もそうだったが、そのまま朝まで何処か違う場所にいるようだった。
女が瞬身を使ったのであろう気配を感じ、辺りから風の音しかしなくなると、カカシはクナイから手を離した。しかしいつでも印が結べるよう手をポケットから出している。目はもう暗闇に慣れていた。カカシは部屋に入った。
ドアを閉めると、結界が張られた。自動的に発動するもののようだ。外の強い風に窓枠が鳴ったり、葉擦れの音が聞こえたりもしない。微かに隙間風特有の高い、鳥の声のような音だけが時折した。

眠っているのは前回と同じ男だった。
左頬を枕につけ、横向きに寝そべっている。両手は身体の前で緩く重ねられているようだった。薄い掛け布がぴたりと寄り添ってそれを主張していた。
カカシは男の腕を避けて、丁度腹の前あたりに腰を下ろした。寝台が軋み、掛け布がずれて、円みのある肩が表れる。寒くはないようだったが、どうにも落ち着かないので、一度立ち上がって掛け布を引き上げてやった。
それから改めて男の隣に横になる。また寝台が軋んで、男の右腕が、乗せていたもう一方の腕から落ちた。
横向きになって男の側を向いていたカカシの、頭に敷いた片腕に、男の指先が触れた。掛け布越しであったが、高い体温を感じる。人というものはこんなに熱いものだろうかと不安に思った。何がしかの病であろうかとも考えたが、男の顔は苦痛も歪みもなく、単に穏やかに眠っているようだった。
割合高い、しっかりした頬骨と、青年らしいややこけた頬が枕に押されて、窮屈そうだ。ふっくらと厚い唇も生真面目にぴたりと閉じられているが、しかし、耳を澄ますと苦しげでは到底ない、規則的な深い呼吸が平和に聞こえてきた。
間近に男を観察していると、カカシはふと、深く眠りに落ちている人間をこんなにも熱心に見つめるのは、これが人生で二度目だと思い付いた。

一度目は、確か十代初めの頃だ。ある女が眠りながら死ぬのを一晩中見張っていた。
普通、暗殺ならそんな時間をかけずに、喉を掻っ捌くなり縊るなりすれば良いのだが、あくまで黙って見張るだけ、余計な手出しをしない、というのが依頼人の希望だった。依頼人は自ら女に毒を盛り、寝屋に運んだので、カカシは文字通りに何一つ手出しをしなかった。天井裏に潜み、運ばれてきた女の真上で、ただじっとそれを見ていた。
女は運ばれて来た時からずっと、身動ぎ一つせずに昏睡していた。睡眠時特有の深い呼吸によって腹や胸が上下に動くのも、厚い掛け布で口元までを覆われている所為で見えなかったが、僅か見える皮膚の感じや気配からすると、確かに生きてはいた。
しかし、覚醒している人間が如何に努力しても手足や頭が動いてしまう、動かしたいと思ってしまう、自然な筋肉の働きが全くなかった。それが、眠っている人間にとっては普通のことなのか、毒によってもたらされている不自然な眠りの所為なのかは、カカシには分からなかった。
一晩、女は布団の中で真っ直ぐに身体を伸ばして、真上のカカシと向き合い続けた。顔は穏やかで、眉をしかめたりすることもなく、瞼は軽く下ろしているだけに見えるのに、決して開かなかった。その瞼が開いたところも、活動している姿も見たことがなかったので、作りものめいた整った顔立ちの女であったこともあり、元からこういう身動きをしない生き物なのだと言われれば、信じてしまうだろうと思った。
そんな無心な眠りも、夜中の内に壊れ、呻き苦しみ出すと予想していたが、日が昇り明るくなり始めてもそれは起こらなかった。依頼では、女が確実に死ぬからそれを見張れ、となっていたが、カカシは依頼人がしくじったのであろうと考えた。そうなると、殺せ、という命が下るかもしれないので、気配を絶って天井裏から降り、間近で女の様子を窺った。
見ると、女は死んでいた。
ずっと見張っていたのに何時死んだものか分からなかったが、確かに死んでいた。自分でも死んだと気付かなかったのか、穏やかな顔で、眠るように死んでいた。

深く眠る男の隣で、カカシはその奇妙な任務を思い出した。
今まで一度さえ思い出すことがなかったというのに、今はどうにも気になって仕方がない。隣にいる男の寝姿が、あの女の死と混ざり合う深い眠りと良く似ているからであった。
女のようにそのまま棺桶に入れられるような行儀の良い体勢ではなく、大分人間らしい寝方をしていたが、やはり身動ぎ一つしない。何時死んでしまおうと、今度も気付けないだろうと思う。
結局、あの任務はそのまま問題なく、依頼人の意図が何だったのか、女が一体何時死んでいたのか、全て謎のまま完了とされた。しかし余計な詮索はしないのが忍びの習いである。カカシは抱いて当然の疑問を口にすることもなく、多くの凄惨な任務に埋もれているうちに何時しか忘れてしまった。
今から思えば全く奇妙である。カカシは依頼書や出来事を一つ一つ思い出し、幾つか腑に落ちるような仮説を立てては見たが、その任務の何処か異様な印象は拭えなかった。理に適った因果関係をいくら積み上げようとも、脳裏に女の寝姿が浮かべば、それは威力を失うのだ。
恐らく冷静に判断するなら、寝屋に運ばれてきた時点で女は死んでいたと考えるのが妥当だろう。しかしカカシが見たところ、女は断じて死んでいなかった。一晩中、死んだように眠っていただけだった。それはどんな理屈を持ち出されても、カカシの中では揺るがない。

死んだように眠っているのと、眠るように死んでいるのとでは、然して違いはないのだ。
深く眠り続ける男を見ながら、そう思い、カカシはいつの間にか寝入っていた。それから夜明けまでの短く慌ただしい眠りを貪った。



続きはどうしようか…?(聞かれても…)