その日、はたけカカシが任務に集中できなかったのは仕方のないことだ。
彼は優秀な忍びではあったが、それ以前に人間だった。
9月15日――その日は、彼の誕生日だったのだ。
予定では前日までに里に帰還し、その日を迎える筈だった。しかし、予期せぬ他里の忍びとの遭遇が重なり、戦闘が長引き、帰還も遅れてしまった。
当たり散らすように乱暴にクナイを振る姿も、警戒地域でもないのに全力で走るという忍びとして無駄な行為も、普段冷静な彼には全く珍しい。任務中に私情で動いたのは初めてだ。それもこれも、全て誕生日の所為だった。
彼は意外にロマンチストだったけれども、もちろん、もはや余程ケーキが大きくなければ蝋燭を立てられない、数えるのも嫌になる歳であるから、ただの誕生日如きでは彼もそれ程執着しない。
だが、この日は、誕生日であると同時に、大切な記念日になる筈だったのだ。
大切な、大切な、恋人との記念日に。
任務に出る前、カカシは、恋人のうみのイルカと、誕生日を共に過ごす約束をしていた。
「誕生日プレゼントは何が良いですか」と聞いてくれたので、カカシは「傍にいて欲しいんですけど…」とだけ言った。
この場合、良く枕詞としてつきそうな、「何にもいらないから」とは敢えて言わなかったところが重要だ。そう言ってしまえば、それは嘘になる。
もちろんイルカが傍にいてくれれば十分だが、何にも欲しくない訳ではなかった。
彼は貰いたかった――イルカ自身を。
実は彼らは付き合って間もない。
そして手を触れることさえ躊躇うような、良い歳をした大人達として不甲斐無い程の深度を保っていた。
カカシの長い片恋の末に実った関係だったから、必要以上の分別が身についていて、勢いなどではどうにか出来ない程に、彼はイルカを愛し過ぎていたのだ。
そもそも、幼少時からそう長くは生きられない身だと自然に思っていたカカシだ。それが、こんなにも長く生き伸びて、一世一代の恋をして、あまつさえそれを成就させた。最早一体これ以上に何を望むことがあろう。イルカの傍にいられるだけで、彼は幸せだった。
だが、それまで意識もしていなかった誕生日という存在を、イルカが示した時、カカシはその日を特別な日にしようと考えた。
以前、あるくノ一がこんな話をしてくれたことを思い出したのだ。
「忘れられたくない男がいたの。だから、その男の誕生日に別の男と結婚してやったわ。毎年毎年、彼は年をとる度に私を思い出すの」と。
全く何故、そんな話になったのかは覚えていないし見当もつかないが、それを聞いて背筋が冷えたのだけは覚えている。彼女の澄んだ瞳が、今まで見てきたどんな修羅より恐ろしかった。
それは一種の呪いだった。男に対して、いや、何より彼女自身に対しての。そこから一歩も動けないように、自らを縛りつけたのだ。
その時は恐ろしさしか感じなかったが、最愛の人を見つけた今となっては、それは全く魅力的に思えた。
だから、カカシはその日にイルカに触れると決めたのだ。
決して忘れないように。一年生き伸びる度に、イルカを思い出し、刻みつけられるように。もしもいつか忘れたいと願うようになっても、その日が来れば必ず思い出すように。年をとる度に、毎年毎年――
罪深い身でそんなことを企んだ所為か、あるいは何時死ぬかもわからない忍びの分際で切望しているものを先送りにしていた所為か、結局その日は任務で消えようとしている。
仲間に訝しがられる程に急いだが、里に着いたのはもう日付が変わる寸前だった。
仕方のないことだ。カカシはもう残念には思わなかった。むしろそれが当然のような気さえした。
カカシは所詮血塗られた忍びだ。敵対する人間はもちろん、親友を、仲間を、救えもせずに殺してしまった。今も昔も、そして恐らくこれからも、里の為と言いながら、許されない罪を犯し続ける。そんな自分への罰なのだろう。自嘲や誇張ではなく、彼はただ純粋にそう思った。
汚れ切った身体を引きずりながら、家へと向かう。そうして辿り着くと、彼は、部屋のドアの前に座りこんでいる人物を発見した。
その人物は、カカシに気付くと立ち上がり、声を上げた。
「カカシさん!」
その姿を見るまでもなく、声を聞くまでもなく、カカシには気配だけでそれが誰だか分かっていた。間違えようもない。それは彼の最愛の恋人、イルカだったのだから。
「良かった、間に合いましたね――誕生日、おめでとうございます」
「ずっと待っていて…くれたんですか?」
「ええ、まぁ…約束しましたから…」
傍にいる、と。
イルカは鼻筋の傷を指先で掻きながら、照れたように小声で言った。
それだけで、これまで焦り、苛立ち、そして落ち込んだ一日が馬鹿らしくカカシは思えた。急いで帰ってこなくても良かったのだった。イルカは傍にいた。身体は遠くに在ったとしても、それでも傍にいてくれたのだ。
もうそれで十分だ。彼はこれまでと打って変わった気持ちで考えた。他には何もいらない。この幸福な気持ちに代えられるものなど何もない――
彼がただ一人そんなことを考えていたから、イルカは不思議そうに首を傾げた。それから、覗きこむようにしてカカシに顔を寄せる。
「…カカシさん?」
呼びかけられて、カカシはその現状に気付いた。
イルカの声が耳に直接といって良い程近くで聞こえ、微かな呼気を肌に感じた。そしてすぐ目の前に、愛してやまない澄んだ瞳が見える。一心に自分に注がれる視線が、カカシに欲を湧きあがらせた。
何もいらないなんて嘘だ。再び一転して彼はそう思った。こんなにも恋うて、乞うているものがある。
「イルカ先生……」
カカシは囁き、力なく垂れ下がっていた片手を上げて、イルカの肩にそっと触れた。
イルカが何も分かっていない顔でまた僅か首を傾げたが、それもカカシの望みを後押しする行為のように思えてしまい、彼はそのまま顔を寄せた。
ああ、ついに――
イルカと触れる僅か数瞬の間に、そう感慨に浸り、己の顔を覆う、邪魔な布を引き下げようとした。
しかし――
――ダメだ。
彼は突然、思い直した。
気がついたのだ。自分がそんなことをしていい訳がないと。
2日間程、ほとんど戦闘に明け暮れていた。
まともな飯を食う暇も寝る暇もなかった。
ずっとずっと人殺し。身体の芯まで汚れている。
そんな身体で、愛しい人には触れられない。
この綺麗な人には、触れてはいけない。
彼は思った。
だってそうだろ、俺は――
…俺……
……ヒゲ、剃ってないのよ…!?
初チュウなのに!
不精髭なんて!
ジョリってしちゃうよー!
そんなの、そんなの!
「いやぁぁぁぁぁぁん!!」
彼はそう叫ぶと、何処へと走り去り――
そして正にその瞬間、はたけカカシが待ち望んだその日は、遂に終わりを告げたのだった。
ちなみに、星の光で淡く輝く涙を点々と後へ残しながら、彼はこう決意した。
「来年こそきっと記念日にしちゃうんだからぁ…!」
so...Many happy returns of the day!!