世界は愛で溢れている。
街を歩けば手を繋ぎ合った恋人たちとすれ違い、映画館の大きなスクリーンでは誰かが繰り返し永遠の愛を誓う。100万人が報われない恋を甘い声で歌い、無数の活字が無償の愛を求めて並ぶ。
誰もが当たり前の顔で恋をし、愛を語っている。まるでそうしない者などいないと言わんばかりに。
しかしヤマトは、愛を知らない。
ヤマトが生まれたのは、海沿いの寒い北国だったそうだ。“そうだ”と表現したのは、ヤマト自身にはその記憶がないからである。物心付いた頃には既に父に引き取られ、東京に移り住んでいたのだ。
母は一緒に暮らしてはいなかったし、大学教授である父は子どもの目から見ても厳しすぎる所があった。そしてヤマトは優秀過ぎ、学校に退屈していたが、それでも極ありふれた家庭だった。少なくとも、ヤマトはそう信じていた。
しかし、ある時ヤマトはその全てが、まやかしであることを知った。
しばらく家に入り浸っていた若い女が、全てを詳しく教えてくれたのだ。
いわく――ヤマトは、精子バンクから金で買われた父の精子と、取り出された母の卵子を体外受精して生まれた。2歳になる頃に子どもの優秀さを聞きつけた父が、認知し、親権を得た。その際に、母に莫大な金を払った。恐らく母はその金で別の精子を買っただろう。
何が可笑しいのか、そこで彼女は笑った。
そして、生まれた時、母に名付けられたもう一つの名前も教えてくれた。
実は、今名乗っている『ヤマト』というのが、そうである。
ヤマトの本当の名は、つまり戸籍に載っている、社会的に通用するのは、『テンゾウ』という。引き取った際に、自分の名に似せて、父が名を改めたのだそうだ。
そうしてヤマトは、父が余りに厳しすぎ、家族として馴染めない理由が分かった。
彼はその名の由来の通り、“テンゾウ”をもう一人の自分のように扱っていた。自分が老いて死んだ後も、テンゾウが後を継ぐように、彼が携わった研究の全てを教え込もうとしていたのだ。
ヤマトに愛が理解できないのは、あるいはそんな生い立ちの所為であったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。
ともかく、ヤマトは少なくない数の女性と、時には男性と、恋人と呼べる関係を築いたが、その何れの人間にも愛を感じることはなかった。
幾度も幾度も、愛もなく、生殖を目的ともしない、快楽さえ少ない、冷静で、無意味なセックスを繰り返した。いつか、映画や小説のようにドラマティックではなくとも、街を歩く恋人たちのような、ささやかでありふれた恋愛ができると思って。
しかしヤマトにはそれが出来なかった。誰のことも愛せなかったし、好きになるどころか興味さえ持てなかった。
しばらく同じことを続けたが、最早無理だと諦めた時、“テンゾウ”は父と決別し、公的な名が必要でない場合には、“ヤマト”と名乗るようになった。
世界は愛に溢れている。
しかしヤマトにとって、愛は決してありふれたものではない。
だから、カカシが恋に落ちたと聞いた時は、他人事ながら本当に嬉しかった。
カカシは大学時代の先輩であり、現在は同じ店で働く同僚である。
大学では学科は違ったが、噂は幾らでも聞こえてきたし、猿飛学長の紹介で知り合ってからは、重なった専門分野で共著論文を書いたりもした。大学を卒業してからも、カカシはホストで、ヤマトはバーテンダーとしてだが、同じ店で働いている。
付き合いは短くない。カカシはその間、人間らしいところを見せたことがなかった。世界から外れたところにいるような、どこか実体のない、孤独な人だった。
ヤマトは実はずっと、そんなカカシと自分は似たところがあると感じていた。ただ、決定的な、何かが違った。
多分それは、彼が愛を知っているというところだったのだろう。
カカシが思い人と会える月曜日をそわそわと心待ちにしている姿や、明らかに光を得て、色の変わった瞳を見ると、ヤマトは嬉しくなり、そして羨ましく思っていた。
だから、ある夜彼らが言い争いをし、その後顔を合わせないようにしているのを見て、ヤマトはひどく残念に思った。
ぐずぐずとバーカウンターに座ったまま、カカシは動かなかった。“イルカ先生”も、デスクに向かい、仕事をしていた。
だがヤマトには、彼らが向かい合いたがっているように見えたし、恐らく実際そうであろう。それなのに、二人は背を向け合っていた。
それを見てヤマトは不意に怒りがわいた。
世界にはヤマトのように愛を知らない人間がいる。誰もが当たり前のようにしている、誰かを特別に思ったり、ただ単純に好きになるという、そんな簡単なことが出来ない。
いや、きっと決して簡単なことではないのだ。誰かを好きになるということは、普通のことではない。それを為す幸運を、何故彼らは分からないのだろう。一体何が不満だと言うのだろう。
「イルカさん」
内心の刺を隠しヤマトが声をかけると、イルカは肩を揺らし、ゆっくり振り向いた。一度会っただけなのに、ヤマトさん、と正しく呼んでくれ、丁寧に挨拶をしてくる。
しかし、その視線はヤマトの背後を彷徨っていた。“誰か”がそこにいることを恐れて、あるいは期待しているのだ。
そんなに求めているのなら、何故背を向け合う必要があるのか。ヤマトはそっと溜息を吐いて、遣る瀬無く俯いた。
すると、隅に何かが落ちているのを見つけた。カカシの、青い石のついたカフスだった。瞳の色に合わせて、ミナトが数年前に贈ったものだ。普段装飾品を身に着けないカカシが、それだけは珍しくいつも着けているので良く覚えていた。
それが何故落ちているのかは知らないが、良い物を見つけた。ヤマトは、それを拾い上げ、イルカに差し出した。
「これ、カカシ先輩のものなんですが、渡してもらえませんか」
反射的に、という感じでイルカが手を出したので、無理矢理押しつける。
「カカシ先輩、店の方にいますから」
「……すみません。会いたくないんです」
「どうしてですか?」
イルカはカフスを返そうと手を伸ばしたが、ヤマトは受け取らない。その態度にも、不躾な質問にもイルカは気分を害した様子もなく、言葉を探すように唇を微かに動かして、ただ俯いた。
本当に理由を知りたかった訳ではない。喧嘩の原因も、彼らの関係がどの程度まで進んでいるものかも知らないが、別に気にならない。ヤマトの望みは、彼らが折角手に入れたものを簡単に手放して欲しくないということだけだ。
しかしイルカは折れてカフスを渡しにも行かず、かといってヤマトを納得させる理由を言うこともできないようだった。代わりにヤマトが話すことにした。
「先輩が何か失礼なことをしたのかも知れませんが、悪気はないと思うんです。少し変わってる人ですからね。もちろん、悪気がなければ何をしても良い訳じゃありませんが。」
「でも、俺……」
「――イルカさん」
何事か訴えようとしたイルカの言葉を強く遮る。何であろうと言うべき相手は自分ではなく、カカシだと思ったからだ。イルカの雄弁な瞳と表情は困惑を表し、ヤマトを真っ直ぐに見詰めた。色合いは全く違うのに、カカシの瞳と同じ、遥かな透明さが見て取れた。それは、何故か、何としても二人を向かい合わせなければならないという使命らしきものをヤマトに感じさせた。
「カカシ先輩は、貴方を待ってます」
すると不意に、そんな言葉が出た。巧妙に丸め込む道筋を立てていたのに、全ては台無しだった。しかし、言ってみると、それは正しい言葉のように思えた。
事実、これを受けて、イルカは顔を上げて核心を話し出した。必要なのはこんな率直な言葉しかなかったのだ。
「でも、俺は、騙されているんじゃ……」
「騙す? カカシ先輩が? それはありませんよ」
一体何を誤解したものか。騙すなど、カカシから一番遠い言葉だ。
しかしイルカはそう信じているらしい。揺るがない、頑なな顔で見返してくる。しかし、おかしなことにヤマトはそれを覆すのは極簡単であると直感した。
難しく考える必要はない。きっと、ただ思ったままを言えば良い。
「カカシ先輩って、見ての通り、お世辞でも愛想が良い方じゃないでしょう。お客様相手にもああなんですよ。でも先輩はこの店でずっとナンバーワンです。どうしてだか分かりますか?」
イルカは目を逸らし、考える素振りを見せた。しかし考えずとも分かっている筈だ。イルカ自身が、カカシに惹かれる理由こそが、その答えなのだから。
イルカを待たずに、ヤマトは答えた。
「あの人は、客だからとか関係なく、その人をその人として見て、本当のことしか言わないんです。それで、お客様は安心するんだそうです。嘘や世辞ばかりで疲れた女性たちは、本物が欲しいんでしょうね」
イルカは、まだ少し疑うようにヤマトを見た。
「僕は――先輩が羨ましい。先輩のようになりたかった」
また、自然に言葉が出た。今のヤマトに底意も策略もない。ただ思ったままを言う。
「でもできないんです。自分を隠さず、護らないなんて、誰にもできない。彼以外には」
イルカは真っすぐヤマトを見て、ゆっくりと瞬いた。少し悲しそうな顔だが、しかし、そこにはもう疑心はない。
「ねぇ、イルカさん。貴方も本当は分かってるんじゃないですか? 信じているんじゃないんですか?」
真実は、圧倒的な力を持つ。カカシのことも、今全て正直に話しているヤマトのことも、イルカはきっと信じる。
いや、信じてくれるに違いない。だからこそヤマトは話したのだ。イルカが、信じてくれる人だと思ったからだ。本当のことを見抜き、恐れず信じる、力がある人だと。
「行ってあげてくださいよ。実はね、貴方が来ない予定の月曜にも、あの人は必ず待ってるんですよ」
冗談めかしてヤマトが笑うと、イルカはカフスを持った手を握り締めた。
そして立ち上がり、ヤマトに頭を下げる。
「ありがとうございます。ヤマトさん」
そう言って、顔を上げた時には、彼は晴れやかに笑っていた。
始めて会った時、バーカウンターで見たイルカの笑顔を思い出す。今までの人生で見たことのない表情だった。それを見てヤマトは、カカシが彼に惹かれた理由が分かった。
本物には力がある。理屈でないところで、心動かされる。常に自分自身を冷静にしか見れないヤマトさえ、それに揺さ振られた。カカシもきっとそうだろう。
イルカは事務所を出て、店の方へ行ったようだった。
ヤマトは帰り支度をしてから、少し覗いてみた。
バーカウンターで彼らは、身を寄せ合い、抱き締め合っていた。まるで元々そういう一つに繋がった生き物だったかのように。
それは、映画やドラマで見るのと全く同じ、陳腐でありふれた光景ではあったが、ヤマトには全く違うものに感じられた。
良かった、とヤマトは心から思い、喜んだ。
今までにない、未知の気持ちだった。
幸福そうな他人を見て、自分も幸福になれる。もしかすると、いや、きっと、これは、愛と言って良いものなのだろう。
それはこれまで感じたことのない気分で、ヤマトはとても得難いものを手に入れたように感じた。
ほんの少し、何処か胸の奥深くが鋭く突かれるような、不思議な痛みも感じていたけれど。
ヤマト前戯長い…!(本題に入るまでが長過ぎてすいません)
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