他人に嫌われるのなんて慣れていた。
何もせず好かれるような人間だとは思わないが、好かれる努力をしたこともない。カカシにはその必要がなかった。そもそも自分に向けられる好悪の感情を気にしたことがなかったからだ。

しかし伸ばした手が音を立てて拒絶されたあの夜、カカシは初めて他人に嫌われることに傷付き、恐れ慄いた。


金曜の夜のことだった。
週末で店は混んでいて、カカシを指名する声も多かったが、その日は昔馴染みである紅という女が遊びに来ていた。紅は学生の頃からの友人だ。そして同じく昔からの友人の、アスマという男と付き合っている。店には純粋に酒を飲みに来ていた。他の客と違って面倒なやり取りは必要ない。だから他の指名の声をはね除けて、カカシは紅と飲んでいた。

お互い何を話すこともない沈黙と、アスマの話題を酒の肴に、杯を重ねる。紅はホストクラブに来ている客のくせに、手酌でウオッカを注いでいた。
いつも通り、カカシもそれを気にすることもなく、お互い自由に飲んでいると、紅が急に声をあげた。

「あら、あの子……」
首を伸ばして店の奥を見ている。
何だろうとカカシもそちらを見てみた。その先はバーカウンターがあった。そこにはいつものようにヤマトが立っている。
そして、もう一人、男がカウンター前のスツールに座っていた。

――イルカ先生だ。
名を呼ぼうと思ったカカシは、しかし声も出せなかった。
イルカがこの店に、営業中に来ているなんて信じられなかった。これまで度々ミナトとカカシで店に遊びに来いと誘っていたのに一度も来てくれなかったのだ。きっと来たくないのだと思っていた。
しかし、本当にカカシの声を奪うほど心乱された理由は別にあった。

イルカは笑っていた。いつものように、顔全体で笑うあの顔で。
しかそれを見てもしカカシの心は、いつものように明るく照らされはしなかった。
今まではイルカが笑顔でいてくれればただ嬉しかった。だがその時、その空間では、その笑顔が自分に向けられていないことが許せない、と思えた。鳩尾の辺りが重苦しくなる。
そしてその感覚は、イルカとヤマトが互いにカウンター越しに顔を寄せるのを見て、より強くなり、突き上げるような痛みに変わった。

意識しない間にカカシは、イルカの元へ歩み寄り、その腕を掴んでいた。
後ろから紅の何か言う声や、やかましいゲンマのシャンパンコールが耳には入ってきたが、聞こえてはいなかった。人の多い煩い店内から出て、いつも昼間に会う事務所へと、イルカを引っ張って行った。

イルカの声が聞きたかった。
イルカに笑って欲しかった。ただ、自分だけに。

それなのにふと気付くと、カカシはイルカに怒鳴られ、そして縋るように伸ばした腕も叩かれるように払いのけられた。そして一瞬でもカカシと一緒にいたくないと言うかのように素早く部屋を飛び出して行ってしまった。

出ていく寸前のイルカは顔を強張らせ、唇を引き結び、いつもカカシを丸ごと包むみたいにしてくれる大きな笑顔と正反対な表情をしていた。
カカシにはそれを一体何と表現するのかは分からなかったが、自分がそれに酷く傷ついていることには気がついた。

カカシは追いかけて謝りたかった。自分が何を仕出かしてしまったのか、イルカ先生に教えて欲しかった。しかし、どうしても出来なかった。もう一度、イルカに拒絶され、あの表情をされたら、息が止まってしまうと思った。


そうして一週間も経ってしまった。
今日はイルカ先生がお仕事として来る月曜日で、少し前に、裏口からイルカの挨拶の声が聞こえてきた。
カカシは今日こそ謝ろうと考えて店のカウンターで待っていたのだが、イルカが来たとわかっても足が動かなかった。

ここで会えない日、東京の何処か遠くにいるであろう瞬間にも、いつだって会いたいと願っているのに。
その人は今、たった何メートルか向こうにいるのに。

怖かった。会いたいのに、怖くて会いたくない。
カカシにはその相反するものをどうすれば良いか分からなかった。
「イルカ先生、教えてよ…」
返事などないとわかっていて呟いてみた。誰もいない店内の赤い絨毯がその声を吸収してしまう。

怖くて、空しくて、寂しかった。
カカシはカウンターに突っ伏し、身体を縮めてそれに耐えた。
こんな気持ちは随分久しぶりだとぼんやりと思った。


*

声を殺して泣いていると、頭を撫でられた。
「どうした、カカシ。何かあったのか?」
優しい低い声でそう言われる。
父さんだった。
最近部屋から出てくることも滅多になかったのに、カカシのために無理してくれたのだろう。

カカシは急いでぐいぐいと目を擦った。
泣いているとはっきり見せてしまったら、理由を聞かれる。
それだけは言えなかった。

さっきカカシは、木の葉大の准教授である父さんが、学生の論文を盗作したのだと、クラスメートに言われた。
もちろん、それは嘘だって分かっている。
本当は教授が盗作して、それを父さんが追及したら、罪を擦り付けられたのだ。真実は隠されて、父さんだけが糾弾され、大学を追われ、父さんは笑わなくなった。

父さんは正しいことをした。
それなのに誰も父さんを信じない。何を言っても、誰も聞いちゃいない。
カカシは悔しくて、それで泣いていたのだった。
でもそんなことは言える筈がない。

「別に。何もないよ」
だから、そう嘘を吐いた。

すると、父さんは――傷付いた顔をした。

その嘘が父さんのために吐かれたものであることに気付いたからだろう。真実を言わないことで、拒絶されたと感じたのかもしれない。
あるいは――カカシの心の底にほんの少しある、父さんへの非難の気持ちが、滲み出てしまったからかもしれない。

カカシは謝ろうと思った。しかし一体何をどう謝ればいいのだろう。真実を言っても、嘘を吐いても、本音をぶちまけても、いずれにせよ父さんはもっと傷付くだろうに。
カカシはどうすれば良いか分からなかった。結局、ただ黙りこんだ。

*


目覚めてから、カカシは自分がいつのまにか眠っていたことに気付いた。
ずっと忘れていたことを、夢を見た。十にも満たない幼い頃の出来事だ。
その頃のことを、カカシは今まで良く思い出せなかった。今は少し思い出せる。

あれからすぐ、父は自ら命を絶ったのだった。
そしてカカシは感情を失くした。
いや、失くしたのではない。自ら消したのだ。
カカシは人形になりたかった。
人間でいたら、父みたいに傷つくことになるから。他人やカカシが父にしたみたいに、誰かを傷つけることになるから。
何も言わず、何も聞かず、何もしなければ良い。そう思っていた。

父の亡骸の前でも、カカシは泣かなかった。それから泣くことも怒ることも笑うことも無くなった。

でも本当は――泣きたかった。父に、泣いて縋って謝って、もう一度笑い合いたかった。
そうだ。ずっと気付かないようにしていたけど、本当はそう思っていた。
やっと気付いた。
だけど、全てはもう遅い。その望みは永遠に叶わない。
父はもういないのだから――

そう改めて思うと、今更涙が出た。
耐えるなんて考えもつかないくらい、圧倒的な力で涙は溢れ出てくる。カカシは嗚咽を漏らし、肩を震わせて泣いた。


そうしていると、ふと、あの時のように優しく頭を撫でられていることに気付いた。
父さん、と反射的に思って、すぐ否定する。父はもういないのだ。それなのに何故か、髪を梳くようにして撫でてくれる優しい手が確かにある。
カカシはまだ夢を見ているような気持ちで、ゆっくりと突っ伏していた顔を上げた。

そこには当然父はいなかったが、代わりにイルカがいた。
「…イルカせんせ…?」
まだぼんやりとした頭で呼びかけると、イルカはカカシの頭から手を離し、目を逸らして少し俯いた。困ったような、苦しそうな顔をしている。

「イルカ先生…ごめんね」
カカシはただもう何も考えられずに呟いた。イルカの顔を見ているととても胸が苦しくなって、どうすれば良いかわからなくなる。
「俺、先生に笑っていて欲しいのに…どうしてできないんだろう…」
きっと他の人間なら、イルカが今苦しそうな顔をする理由も分かって、そもそも先週の夜イルカを怒らせることや傷つけることもなかったんだろう。
他の普通の人間なら、父やイルカに笑ってもらえるんだろう。
だけど人形になんかなろうとしたカカシには、何も分からない。他人や自分の感情を理解しようとしてこなかったから。
カカシは愚かな自分を責めた。
「ごめんなさい…俺が、普通じゃないからだよね。他の人間と違うから。ごめんね、ごめん…俺がおかしいから…」
壊れたように「ごめん」と繰り返した。言うたびに、目の縁から涙が一粒ずつ零れていく。それが情けなくて、カカシは再びカウンターへと顔を伏せようとした。

しかし、次の瞬間頬に当たったのは、冷たいカウンターではなく、硬く少しざらついた布の感触だった。
「…カカシさんは何も悪くない…」
何かが押し付けられている耳に直接響くように、イルカの声が聞こえてきた。
不思議に思って手を伸ばすと、イルカの腕に触れた。イルカの両腕が、カカシの頭を抱えるように抱き締めているのだ。
「俺が悪いんです。俺が、貴方を信じなかったから。ごめんなさい…」
そう言ったイルカの声は少し震えていた。見えないが、泣いているようにも聞こえる。
カカシはイルカが泣いていると思うと悲しくて、しかもそれが自分の所為であるらしいことが辛くて、また涙を溢れさせた。
「先生は悪くなんてないよ…俺がイルカ先生に嫌なことをしたんでしょう? 俺、ひとがどう思うかとか分かんないから、自分勝手なことして…」
カカシがなんとか謝ろうと必死に言うと、イルカは抱き締める腕に力を込めてきた。

「違うんです。俺が貴方を誤解してたんです」
「誤解…?」
「俺、貴方にホストクラブに来る女性客みたいに扱われてると思ってたんです。貴方が嘘を吐いてると…」
「違う…違うよ、イルカ先生。俺は…」
「はい。分かってます。俺が間違ってました。カカシさんは、何も嘘は吐いてなかったのに」

イルカはやはり少し震えたような泣きそうな声をしていたが、カカシはもう辛いとは思わなかった。
イルカに許して貰えた。信じて貰えた。それが嬉しかった。

「イルカ先生…」
カカシはイルカの身体に腕を巻きつけ、強く抱き締めた。ほのかにイルカの香りがする。マフラーを貸してもらった時と同じ、温かい、自然で安心する香りだ。
もっとそれを感じたくて、カカシはイルカの胸に顔を押しつけた。

しかし、しばし堪能した後、ふと目の前のグレーのスーツが、点々とダークグレーになっていることに気付いて我に帰った。カカシの涙の所為だった。
「先生、ごめんなさい、スーツが! それに…こんな泣いて…俺…」
カカシは慌ててイルカから顔を離し、スーツをはたくようにして水滴を飛ばそうとしたが、疾うに染み込んでしまったものは取れない。諦めて元を断とうと、涙を手で擦って拭いたが、謝ることばかりしてしまう自分がまた情けなくて、涙は止まらない。

「カカシさん、良いんです」
するとイルカがそう言って、まだ頭に回していた手で、またカカシの髪を撫でてくれた。そして、
「泣きたいときは泣いて良いんですよ」
優しい、低い声でそう言われた。

だからカカシはもう一度、腕を回し、温かい匂いのするイルカの胸に顔を押し付けて泣いた。
そして泣きながら、カカシは知った。
父さんとも、一緒に泣けば良かったのだ、と。


こうして、カカシは他人の感情から逃げ続けていた自分を知り、イルカに泣くことを教えてもらった。
他人の感情を気にするようになれば、これから傷つくことが増えるだろう。でも、そうしたら泣けば良い。意外と涙は温かい。思う存分泣けば良いのだ。

その夜、瞼が腫れて不細工になってしまい、店には出られなかったけど。









いやーうざいですね、カカシ(酷)



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