「どうぞ」
ざわめく店内でも良く通る低い声と共に、透明な細いグラスが置かれた。
イルカは恐縮しながら、一口飲んでみる。ウォッカトニックだ。場違いにも軽い食事を出してもらっているイルカに合わせ、食事の邪魔にならないものを作ってくれたのだろう。
兄弟のように慕っているアスマが酒好きで、早くからイルカにも酒を教えて良い酒ばかり飲ませてくれたものだから、イルカの舌もそれなりのものになっている。
癖のない、それでいて存在感はあるウォッカはとても美味い。きっと良いものを使っているのだ。
「美味しいです」
イルカが世辞抜きで心から言うと、バーテンダー――名前は、胸のプレートによると『ヤマト』というようだ――は、控え目に微笑んだ。
この光景だけならば、ただのバーのようであるが、実はイルカのいる場所はホストクラブである。
そう、ミナトの店だ。ミナトやカカシに散々誘われて、アスマにも相談してみてやっと足を運ぶ決心がついたのだった。
裏口から入ってちらりと覗いて帰るつもりだったが、喜ぶミナトに引きとめられて、バーカウンターに座らされ、食事まで出してもらってしまい、今に至る。
「ゆっくり遊んでいってね」と、ミナトの否は聞かないという笑顔で、そう言われてしまっては、すぐに帰ることなどできなくなった。
だが、当然ながら客は女性ばかりの店内に入った時こそ怖気付いたが、こうして隅のカウンターで改めて眺めてみると、店は想像していたよりも落ち着いた雰囲気でほっとした。
会話も盛り上がって、女性達は皆笑顔ではあるが、女性もホストも下品に騒いだりはしていない。
ちなみに全体を見ると、一番騒がしいのはオーナーのミナトだったりする。仕事で朝や昼に会う時と同じテンションだが、いつ見ても元気なその様子に、全くいつ寝ているのだろうと疑問が湧く。
じろじろと眺め過ぎてしまったのだろうか、席を渡り歩いていたミナトが、イルカの方へやってきた。
「ごめんね、暇だよね。カカシ君、今お得意さん来ちゃってるから」
空いたらすぐ呼ぶからね、とすまなそうに眉を下げる。
女性客でない、店の売上にならないイルカの為に、カカシを呼ぶと言う、それは普通なら遠慮するべき申し出だ。
しかしイルカにはどうしてもそうできず、もごもごと口の中で謝罪らしきものを呟いただけだった。
ミナトはそんなイルカを見て、何も言わずににっこりと笑んだ。鋭いこの人は、イルカがカカシ目当てで来たということを、わかっているのだろう。
先日、ミナトに早めの忘年会に招待されて、お台場でバーベキューをした。
冬の海辺でのバーベキューは何というか斬新な試みであった為、参加者は少なかった中、意外にもカカシが来ていた。何も言っていなかったが、ミナトに強引に引っ張って来られたのかもしれない。
店の事務所で毎月一度は必ず会うカカシに、イルカは勝手に親近感を感じていたので、仕事の延長じみたものだったとしても休日にゆっくり話せる機会が出来て嬉しかった。
ミナトの息子のナルトが、一体どうやったものやら炭を爆発させたり、ミナト夫妻が肉や野菜の前にマシュマロを焼きたいと言い出し、網にくっ付けてしまったりした為に、その始末に追われてゆっくりとは話せなかったが、カカシの色々な顔が見られた。
ナルトの友人のサクラという女の子が寒がっているのを見かねて上着を貸してやるところは、非常に格好良かった。カカシも寒いだろうにそんな態度は微塵も見せず、黙って無愛想に上着を放ってみせた。余計なことは言わず、押しつけがましくもない、さり気ない優しさだ。
きっと普段から女性にそうして接しているのだろう。これはモテるに違いない、とイルカは思った。サクラもただ上着を貸して貰って暖が取れるからというだけでない、嬉しげな顔をしていた。それを見てもカカシは得意ぶるでもない。彼にとってそんなことは日常なのだろう。イルカは素直にすごいと思った。
その後、ニット一枚で見るからに寒そうなカカシに、イルカがマフラーを貸した時の顔はまたすごかった。最初は「寒くないからいらない」と、明らかに嘘を吐いていますという不自然な顔をした癖に、マフラーを巻くと子どもみたいに鼻まで埋めて、ぱぁっと輝くような笑顔になったのだ。
何にも言わなくてもカカシが喜んでいることが分かって、イルカも嬉しくなった。
しかしその後、帰り際、共に電車に乗った時だ。
ライトアップされた橋や、ビルの無数の窓からもれる灯りが輝いていた夜景を、イルカが「綺麗だ」と評した。
するとカカシは真顔で「イルカ先生の方がずっときれいです」と言ったのだ。
そんな気障な、そして到底男相手に言うべきでない言葉は、冗談として笑い飛ばすべきだと思った。しかし、イルカはそうできず、ただ湧き上がる感情に翻弄され、何も言えずに黙っていた。
初めてカカシと会話した時、「店に遊びに来て。俺を指名して」とカカシは言った。その時と同じものを感じたのだ。
――この人はホストなんだ。
そう実感するとイルカは、悲しいような、少し腹立たしいような、不思議なものが胸に渦巻く。それが一体何なのかは分からない。
だから、知りたいと思った。
カカシがホストとして働く姿を、見てみたいと思った。
そうして今日来てしまったという訳だ。
肝心のカカシは遠い席にいるので、窺い見ることは出来ないが、とりあえず後で少し話してみようと思う。
緊張して妙に乾く喉をウォッカトニックで潤していると、突然、一角から威勢の良い声が響いてきた。
見ると、茶色がかった金髪を肩まで伸ばした男が立ちあがり、何やら節をつけて歌うように叫んでいた。眉を寄せてしかめっ面をしているが、それにしては大き目な声を店中に響かせる。
すると他の席にいたホスト達もその周囲に集まって、それを囃し立てるようにした。とても盛り上がっている。
それにしても、彼ら、中心の男の声に合わせて踊るような仕草をするのだが、それが全員ぴたりと揃っているとは言い難い。そして一生懸命声を張り上げているのに、何を言っているのか分からない。失礼かもしれないがそれはどうも、幼稚園のお遊戯会を思い出す。
何はともあれ、楽しそうであることは間違いない。
少々この店には不似合いであるような気もするが……と思っていると、バーテンダーのヤマトが苦笑しながら「煩くてすみません」と言ってきた。やはりあれはこの店にはイレギュラーな出来事なのだろう。イルカの印象は間違っていなかったようだ。
「あれは何をやってるんですか?」
「あれはシャンパンコールと言って、高いお酒のボトルを出す時にやるパフォーマンスです。うちではあまりやらないんですが。お客様がどうしてもと仰られたのか…それとも本人がやりたいだけかもしれません。ゲンマさん、あんな顔してるけどノリが良いんですよ」
中心のしかめっ面の人がゲンマさん、のようだ。確かに、その奇妙なパフォーマンスも嫌々ではなく、ホスト達の中では一番ノリノリである。クールな面立ちの男前だが、見かけによらないらしい。
そう考えてから、ふと気になった。
カカシもあれをやるのだろうか?
この店ではあまりやらない、とヤマトは言った。あまり、ということは、全く、ではなく、客が乞えばやるのだ。ということはカカシもやらざるを得ないこともあるだろう。
「あれは……カカシさんもやるんですか」
イルカが訊いてみると、ヤマトは手で口元を覆い、ちょっと眉を上げ、「カカシ先輩がコール……想像できませんね」と震える声で言った。笑っているらしい。想像できないと言いながら、想像してしまったのだろう。
「カカシ先輩にあれをやれなんて言うお客様もいませんし、もし言われたとしてもやらないでしょう」
確かにカカシがあんなパフォーマンスをやると少し妙かもしれない。イルカも踊って歌うカカシを想像しかけてしまい、笑ってしまった。
するとヤマトはふと笑いをおさめ、初対面同士にしては少し不躾なほどゆっくりとイルカの顔を眺めた。
「もしかして貴方が“イルカ先生”?」
言われて、そういえば名乗っていなかったと気付き、声に出さずにそうですと頷いた。また店内がシャンパンコールとやらで騒がしくなったので、聞こえないだろうと思ったのだ。
ヤマトは分かってくれたらしく、少々大袈裟なほど何度も首を縦に振った。成程、というゼスチュアかもしれない。
それからまた少し吹き出すように笑い、「カカシ先輩は」と話し出す。周りが煩いので聞こえ辛く、イルカは聞き取ろうと顔を傾け、右耳を寄せた。
その様子に気付いたヤマトは、聞こえるようにだろう、少しカウンターから身を乗り出してきた。
「カカシ先輩は、貴方が――」
そうヤマトが言った。
しかし、その続きを聞くことはできなかった。
急に腕を、後ろに引っ張られたのだ。
無理に引かれたので、傾けていた首が変な音をたてる。自由な方の手を首に当てながら見ると、そこにはカカシがいた。
「何してるの?」
小さくカカシが呟いた。何故だろう、少しも声を張ってはいないのに、騒がしい店内が急に静かになったように思うほど、はっきりと聞こえた。
それは、何処か責めるような響きがあった。
突然のことに驚いて何と答えて良いか迷っていただけなのだが、黙り込んでしまったイルカに、カカシは声が聞こえないのだと思ったらしい。舌打ちして、掴んでいたイルカの腕を引っ張り、裏側のドアの方へ歩き出した。
よろよろと、時折壁にぶつかりながらイルカも何とかついていく。行く先はお馴染みの事務所であった。店側の喧騒と打って変わって、誰もいない部屋は冷たく沈黙している。
ぐいと引っ張り込まれてからドアが閉められた。
「ねぇ、イルカ先生。ここで何してるの」
カカシが静かな声で言った。しかしそこには先程より明らかに感情が込められている。それは怒りであるように思えた。
「俺は、…遊びに……」
イルカは一先ず反射的に呟く。
そうだ、遊びに来いと、カカシが言ったのだ。それが何故、こんなに怒りをぶつけられることになっているのか。
ずっと掴まれたままの腕が痛む。こんな仕打ちを受ける意味が分からず、イルカはカカシの手首を取って押しのけた。しかし、カカシはその手を払うと、今度は両手でイルカの肩を掴み、ドアへ押し付けてきた。
「遊びに、ね。それでテンゾウなんかと仲良くしてたんだ」
押さえつけられた肩が痛いだとか、テンゾウとは誰だとか、言うべきことは沢山あったのだが、イルカに出来たのは、カカシの瞳の色を見つめることだけであった。肩を掴まれている所為でごく近くにあるカカシの目はそれまで見たことのない色をしていた。蛍光灯に背を向けた逆光だからなのか、青味の感じられない暗い灰色に見える。まるで見知らぬ他人のようだ。
「ねぇ、何を楽しそうに話してたの」
そう言って薄く笑う顔も、まるでカカシらしくない。いつも見惚れてしまう、あの春の陽光のような柔らかな優しい笑顔ではない。
明らかに作り物のその表情は、カカシの整った顔と相まって、まるで人形のように冷たかった。
「…どうして俺を呼んでくれなかったの?」
戸惑うイルカに、カカシが言葉を重ねる。
呼ぶも何もない。カカシは得意客を相手にしていたのに、客でもないイルカが何故呼べるだろう。もちろん、後で話くらいしたいとは思っていたけれど。
「…カカシさんは……」
それを伝えようとしたイルカは、しかし、カカシが押さえ付けてくる肩の痛みに呻き、続きを告ぐことができなかった。スーツに包まれたカカシの身体はとても細身に見えるのに、その腕を押し返そうとしてもびくともしない。
痛い、と訴えようとしたが、その前にカカシが口を開いた。
「――俺を指名してって、言ったのに」
そう言われた瞬間、イルカは渾身の力でカカシの腕を振り解き、叫んでいた。
「俺は客じゃない!」
そして叫びながら、やっと、カカシに対してあの不思議な気持ちを感じる訳が、分かったような気がした。
イルカはカカシが綺麗な人だと思っていた。姿形だけではない。心の話だ。素直で、率直で、自分を偽ったり、他人を欺いたりしない人。そういうカカシに好意を抱いた。
今まで会ったことのない人だと思った。きっと良い友人になれると思った。
だから、そのカカシが、世辞や嘘で偽るのが普通であるホストという仕事をしていることが、嫌だったのだ。
そして何より、女性客扱いされて、イルカ自身を見てもらえないことが、悲しかったのだ。
イルカはずっと独りだった。
子どもの頃、両親が死んでから、ずっと独りだった。もちろん、世話を焼いてくれる人や、親しい友人もいた。しかし、馴染めなかった。何処にいても、誰といても、自分がここにいてはいけないような、場違いであるような気持ちがしていた。
でも、ずっと信じていた。いつか出逢える。分かってくれる人が、必ずいる。
相手も自分も、何も繕わず何の無理もない、ありのままの姿で生きられる。そういう人をイルカは探し続けていた。
そして、知らぬ間に、思っていたのだ――カカシがその人であると。
カカシがまた腕を伸ばしてきた。
イルカはそれを叩くようにして拒絶した。イルカの手に固いものが当たり、それが床にかつりと硬質な音を立てて落ちる。小さな青い石の付いたカフスだった。
カカシの目の色に似ていた。昼間会う、優しい顔のカカシの目だ。
落ちたカフスを見て、カカシが少し目を見開く。それはやはり色のない暗い灰色をしている。
こんな無機質な冷たいものじゃない、温かいあの綺麗な青色が好きだったのに。
今までのことはカカシがイルカを、からかう為か、金蔓と見たのか。どちらかは分からない。
とにかく、この人はホストだ。瞳の色さえ変えられるだろう。
人間は、嘘なんて簡単に吐けるのだから。
イルカはいつも出入りする裏口から、店を飛び出した。
冬の空は澄んで、星が輝いている。しかしネオンの下から仰ぎ見ても、それは酷くか細く、誰にも頓着されずにいる。
何億光年旅しても、この街ではそうだ。偽物の光に邪魔されて、本物が見えない。
最早、イルカには本物が何かなんて、分からなくなっていたけれど。
やっと物語が動きます。
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