年末が近いと酒が美味い。思う存分飲んでも誰にも文句を言われないからだ。
もちろん、アスマにとっては一年毎日365日美味いし、思う存分飲むのだが、それとはまた違う。正月と年末、花見と月見と、惚れた女が甘えてきた時、そして虎柄の野球チームが勝った時の酒は格別なのだ。
反対に、酒が不味くなる時も偶にはある。もう少しで倒れるというくらいに体調が悪い時、葬式や嫌いな奴との宴会、惚れた女に袖にされた時、そして虎柄の野球チーム…はもう良いとして、一番は、延々と人の惚気、あるいは愚痴を聞く時、である。
誰かに、相談にのってくれ、と言われたら、アスマは不味い酒を覚悟する。相談というのは大抵の場合つまり愚痴だからだ。
とはいえ、それも苦にならない相手というのも存在する。むしろ、聞いてやりたいとさえ思う奴もいる。
そいつが明らかにちょっとした悩みを抱えていますという顔をしていたからと言って、アスマの方から飲みに誘ってしまうくらいだ。
だから杯を重ねてしばらくした頃、イルカが「ちょっと聞いても良いですか」と切り出された時も二つ返事で引き受けた。しかし――
「ホストクラブって男が行っても良いものなんですかね?」
随分言い辛そうな顔をしていたものだから、どんな話かと思えば、イルカはそんな訳の分からないことを言い出した。
ホスト、とはイルカには縁のなさそうな言葉である。
ちなみにアスマには実は縁が深い。学生時代に知り合いのホストクラブでバイトしていたこともあるし、今つき合っている女が結構な頻度で通っているからだ。
誤解のないよう言っておくが浮気ではない。別に男目当てではなく、思う存分酒が飲めるからなのだ。アスマの知り合いの店だから割引してもらえるし、しかも指名するホストも友人で、どれだけ飲んでもごちゃごちゃ言われないのが気に入っているらしい。他の店だと女一人で飲んでいれば男が寄ってくるのが鬱陶しいし、女友達と飲んでも先に潰れられて満足するまで飲めない、という豪気な女だ。
それはともかく、今はイルカの話である。
「なんだぁお前、変なもんに興味あんだな。ホストになりてぇのか」
もちろんそんなことはあり得ないと分かっている上での冗談で、茶化して話しやすくしてやる為である。
イルカは真面目な男だ。そして何もかも自分一人で背負い込んで解決しようとする傾向がある。こうやってアスマに何か相談するのは申し訳ないだなんて考えている筈だ。そんなことは全然ないのに。
「ち、違いますよ。俺が担当してる店がホストクラブで…遊びに来いって誘われるんですけど…」
どうしたら良いでしょう?
イルカは珍しく小さな声でそう言った。
澄んだ黒い瞳が、アスマを見る。それは昔と変わらず、真っ直ぐに強い光を持って向かってくるくせに、何処か寂しげだ。
アスマはイルカのそんな目を見るといつも、孤独というものについて思う。
イルカと初めて会ったのは十数年前のことだ。
親父が支援している施設で会った。様々な理由で親と暮らせない子ども達を、義務教育を終えるまで世話をする施設だ。イルカは孤児だった。事故で両親を一度に失ったのだ。
親父に無理矢理連れられてアスマがそこへ行った時、イルカは当初、目立たない、大人しい子どもだった。小学校低学年の小さな子たちはアスマの足や腕に纏わりついてきて嫌でも存在を認めざるを得なかったのだが、イルカはもう小学校を卒業しようかという年だったこともありそんなことはしなかった。バタバタと走り回る子ども達を避けて部屋の隅にいた。
アスマはそれを見た時、良くいるこまっしゃくれたガキが大人ぶって騒ぎたいのを我慢しているのだと思って声もかけなかった。結局その日アスマが去るまで、イルカは部屋の隅にいて、アスマとは目が合うことも話をすることもなかった。
賑やかな部屋の中でじっと静かに佇むイルカの様子は、小さな生き物が穴倉で息を潜めて嵐に耐えている姿を連想させた。密やかで存在感のないその子どもの、どこか遠くを見るような黒い目だけがアスマの印象に残った。
しかし次に、確か二,三ヶ月程後にまた訪れたら、イルカの様子は一変していた。
イルカは、前回アスマに纏わりついてきた小さな子達よりも賑やかに騒ぎ、部屋の中央、子ども達の中心にいた。
間抜けな仕草やコミカルな動きをわざとして、人を笑わせ、そして何よりイルカ自身が良く笑った。
余りの変わりように驚いて、アスマは、「あいつ、どうしたんだ」と、親父にそっと聞いてみた。
「大丈夫、強い子じゃから」
親父は少し考えるように押し黙ってから、ただそれだけ答えた。
アスマは意味が分からなかったが、特に追及する理由もなく、それ以上は問わなかった。ただ、良く笑うようになっても、イルカの目が以前と変わりのない、焦点が合わないような、奇妙に透明な色をしていることがひどく気にかかった。
親父は「大丈夫じゃ」ともう一度言って、その後、イルカと話をしたようだった。
それからアスマはしばらくイルカと会うことはなかった。
親父の施設訪問のお伴をすることがなくなったからだ。
親父との関係は、アスマが長じるごとに悪化していたが、大学卒業後の進路を決めるべきその頃には、もうたった一言の会話もされないような状態だった。
今から思えば、ただの意地の張り合いだったと言えるのだが、その時はそうもいかなかった。木の葉学園を経営する猿飛家の跡取りとして完璧に道が定まっていることや、未来を全て見通しているような親父の言動がたまらなく嫌だった。このまま生きていけば、周りだけ動いていて、自分だけが取り残されていくような、自分が自分でなくなるような気がしていた。
別に親父としてはアスマがどう生きようと、それが自ら選んだ道ならば構わなかったのだろう。事実、アスマが教職は選ばないことを告げても何も言わなかった。
アスマは木の葉大学で教育学を学び、いずれは小学校の教師になるつもりでカリキュラムを組んでいた。だから、もう教員免許は必要ないという結論に達した後であったが、教育実習には行った。
何処の子どもも大抵は同じだ。ぎゃあぎゃあと煩い。昔施設にいた子どもたちのようにアスマの腕や足に纏わりついてくる。どうもアスマの腕や足は子どもにぶら下がってみたいと思わせる何かがあるようだ。
二週間、教育実習というより只の遊び相手として過ごした後、アスマはふと気付いた。どんな子どもも、昔見たイルカのような目はしていなかった、と。
アスマに纏わりついてくる子も、それを羨ましそうに眺めている大人しい子も、そのいずれもできない捻くれた子も、イルカには似ていなかった。
何故なのか。考え始めると止まらなかった。イルカが二度目に会った時には様子が急変していたことや、「大丈夫だ」という親父の言葉も、意味が知りたかった。
アスマは数年振りに施設を訪れ、イルカに会いに行った。
イルカはまた変わっていた。初めて見た時よりは元気に、良く笑い、しかし二度目に見た時より落ち着いた、穏やかな子になっていた。成長というもののためではない、何かがイルカを三度も変えたのだ。
まどろっこしいことは好きじゃない。アスマは単刀直入に訊いた。
イルカは突然そんなことを訊かれて驚いて目を見開き、それから吹き出すように笑った。「どんな深刻な話かと思ったら」と言う。
笑われて不貞腐れたアスマに、イルカは真面目な顔に戻った。表情が良く変わる子だ。
「父ちゃん母ちゃんが死んで、しばらくはあんまり記憶なくて、だけど独りになったってことは分かってて。それで寂しくて、誰かに見て欲しくて、バカやってみたりして。そしたら、じいちゃんが…猿飛先生が……辛かったろう、って…無理して笑うのは辛いだろう、って……言ってくれて」
思い出しているのだろう、イルカは少し目を細めて俯き、僅か沈黙した。だがすぐに顔を上げ、真っ直ぐにアスマを見つめた。それはアスマなどよりずっと大人びていて、やはりどんな子どもとも違う目をしていた。
「分かってくれる人が、絶対いるんです。誰にでも」
子どもに言い聞かせるみたいにゆっくりと言って、そして、イルカは笑った。それまでアスマが見たどの顔より無理のない、本物の、笑顔だった。
アスマは、親父に完敗だと感じた。
イルカにしてやったように、一人の人間をしっかり見つめて救いあげてやることなど、アスマは誰かにしたことがあっただろうか。いや、そうしたいと思ったことさえなかっただろう。
親父のあの、全て分かっているというような自信に満ちた言動はきっと、こうした実績と誇りに支えられたものだったのだ。そんな仕事、そんな生き方をすることを、アスマは思い描くのも難しい。
アスマは、自分は結局、自分自身しか目に入らない、ただの子どもだったのだ、と感じた。
その後のアスマのことを説明するのは実に簡単だ。
宣言した通り教師にはならなかった。子どもは好きだから、いつか隠居して片田舎で何か教えるのくらいは悪くないとは思っている。
では、何になったかというと、酒屋である。これについて誰にも文句は言わせない。ただの趣味じゃないか、という指摘も受け付けない。趣味だろうが何だろうが、自分が好きなもので、しかも適性があって、心の底から望んだ道なのだ。誇りを持っている。
初めの頃は、普通の酒屋が目につけないようなマイナーで、それでいて最高に美味いものを見つけてきて売るのが至上の喜びだったが、そのうち物足りなくなって自分で造る方に回った。今は23区外ではあるが、東京で日本酒を造っている。
普通水が美味い土地の方が良い酒ができるものである。それを塵溜めのような東京で造ってやったら痛快だろうと始めたことだが、今では汚らしく狭苦しいこの生まれ故郷に愛着を持って暮らしている。
ちなみに、惚れた女は都心に残ったが、週末などはあちらからやって来たり、アスマが出て来たりして変わらず続いている。一時は別れを覚悟したこともあったが、今は問題なく、その内一緒になろう、とも話している。ますます酒が美味い。
アスマはそんなこんなで面白おかしく過ごしたが、イルカの方はそう簡単にはいかなかった。
親父の施設を出た後、幾つかあった養子縁組の申し出を頑なに断り、親父に後見だけ頼んで、働きながら高校へ、そして更に大学にまで通った。それがどれだけ大変なことかはきっと実際そうした者にしか分からないだろう。
それについてアスマは、イルカが不幸だなどと言うつもりはない。
イルカ自身が、そんなことを思ってもいなかったからだ。自分の境遇を嘆くこともなく、まるでそうすることが当然だというように、何事にも懸命に取り組んでいた。同級生たちが他愛無い遊びやままごとみたいな恋愛に夢中になっている時にも、イルカは真っ直ぐに前だけ見つめて自分のすべきことをした。嬉しいことには笑い、悲しいことには時に泣いて、全力で生きていた。
その潔い生き方を、何故不幸だなどと言えるだろう。
ただ、アスマは一つだけ、イルカについて遣る瀬無いと思うことがある。
イルカは孤独だった。
もちろん、人当たりの良い外見や性格のために、友人は多いのだ。しかしイルカはその誰とも、どんな人間とも深い関わりを持たなかった。いや、持たなかったのではない。持てなかったのだ。イルカではなく、友人側の方が、イルカとの深い関わりを避けたからだった。
その理由は、イルカのその、誰とも違う目や、本物の笑顔の所為だ。アスマはそう断定する。その気持ちが分かるからだ。
イルカの前にたった人間は、薄汚れた自分の姿が、そしてその自分がイルカを汚すこととなるかもしれないことが、恐ろしくなるのである。
つまり孤高、という訳だ。
しかし、どんなお美しい言葉で表現しようとも、ともかく、イルカはたった独りで生きていくしかなかった。それは想像し難い寂しさである。
アスマのように不純な人間が楽に生きて、イルカのように清廉な人間が、真っ当過ぎるからという理由で孤独に耐えているとは、理不尽で痛ましい。
だからという訳ではないが、アスマはイルカにちょっとした悪い遊びを教えてきた。イルカはやっぱり馴染めないようだったが、無理矢理連れ回してやった。
いつか純なイルカを騙して頭から取って喰っちまおうとする女も出てくるだろうから、隙を見せないよう、色んなことに慣れさせておきたかったのだ。
そんな輩にイルカをくれてやる気は、全くこれっぽっちもないから、アスマも必死だった。
イルカには、イルカを理解してくれる可愛く素直な女と幸せになって貰いたい。だってそうでなければ、余りにも酷いではないか。
実は、きっとイルカにふさわしい女が何処かにいると、アスマは信じていた。イルカを理解し、愛し、その孤独の影さえも消せる、イルカと同じくらいに純粋な、美しい人間と、出逢えるに違いないと。
もちろん、あまりに少女趣味めいていて誰にも言ったことはない。
「全く、そんなもんじゃなくて、そろそろ女の話が聞きたいもんだ。いないのか、付き合ってる女は?」
アスマがからかうように言うと、イルカは顔を赤くして首を振った。この様子では、アスマが信じていることが実現するまでは遠そうだ。
いつか、イルカにそういう相手が出来たら、酒がどれだけ不味くなろうが、愚痴でもノロケでも、幾らでも聞いてやるのに。
それはともかく。
「すまんすまん。ホストクラブだったな」
真面目に聞いちゃいないのがバレてしまったらしい。イルカがじろりと横目で睨んでいたのだ。だがアスマが謝るとすぐに向き直って話を促すように見つめてくる。その素直な様子にアスマはもう少しからかってやりたい気になるが、これ以上は止めておかなくてはならない。イルカを傷つけるのは本意ではないから。
「まぁ、普通は行かねぇだろうけど、誘われてるんなら良いんじゃねぇのか。担当の店だったらどんな商売してんのかも気になんだろ」
アスマはそう言う。頭も悪くない上に意志の固いイルカのことだ。きっととっくに自分では答えは出ていて、背中を押して貰いたかっただけだろう。
「そうですよね…」
そう言ってイルカは安心したように笑った。
何がそんなにイルカの興味を引いたのかは分からないが、別に男ばっかりのホストクラブくらい行ってくりゃ良い。逆に、悪い女が集まる店に行きたいと言ったら絶対に止めるが。
そうだ、商売女なんか駄目に決まってる。言われてもいないことにアスマはぶんぶん首を振って否定し、ぐいと酒を飲み干す。
イルカも同じ酒を飲み干している。学生時代から酒を教えてしまったから、意外にイルカは強いのだ。
そしてアスマとほぼ同時にグラスを置いた時、イルカはぽつんと、呟いた。
「…良かった」
その声は、何か甘く淡い、不思議な響きを持っていた。
どうしてだろう、アスマは少し不安になる。
いや、喜ばしいことなのか?
混乱するアスマを余所に、イルカは上機嫌で新しく酒を注いでいる。
アスマは問い質そうかとも思ったが、何だか分からないがイルカが嬉しそうならそれで良いではないか、と考え直してグラスを傾けた。イルカの良い笑顔で、酒が美味い。
どうも、遠くない将来、酒が不味くなるような嫌な事態が起こる、妙な予感はしたけれど。
思ったよりアスマさんが面白いことしてくれませんでした。
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