カカシには先生と呼ぶ人が二人いる。
過去に学生として立場上そして便宜上、先生と呼んだ人は幾人かいたが、特別記憶には残っていない。だからつまりその呼称自体に何ら意味があるという訳ではない。
しかしそれでもその二人を先生と呼び続けるのには、カカシにとってただ、それが自然であると感じたからだった。
高校生の時、家庭教師だったミナトを先生と呼ぶのはもちろん自然なことだと思うが、カカシが先生と呼ぶもう一人は、学校の教師でもないし、年下だし、知り合ったばかりだ。あるいはそういう人を先生と呼ぶのは、他人からすると奇異に思えるかもしれない。
もちろん、始めの方にその人を先生と呼んだのはただミナトがそう言っていたからではあった。しかし知り合って僅かずつ会話をする度に、その呼称は自然なもの、むしろ当然と言えるような、当たり前のものになった。ミナト等は、仕事の話をする時しかその人をそう呼ばないが、カカシはいつでも、その人を先生と呼ぶ。

「わ、綺麗ですね」
窓の向こうに広がった夜景に、カカシが先生と呼ぶ人――イルカが、そう言って笑った。
虹の名を付けられた大きな橋の灯りと、そこを通る車の赤いテールランプが見える。
カカシにとってはそれは、ただの光、電球やLEDの羅列にしか感じられなかったが、イルカが綺麗だと言うから、それが美しいものなのだと分かった。そう見てみれば、イルカの黒い瞳に陽が反射した眩しい光を見た時に似た、胸の空くような、あるいは温かいような思いがした。確かに、それは綺麗だと思えた。
イルカはカカシに色々なことを教えてくれる。


先日もそうだ。ミナトに唆されて、一緒に昼食を摂った。
その時、カカシは新宿に住んでいるにも関わらず良い飲食店を紹介できず、情けなく申し訳ない思いをしたが、イルカは笑って何でも良いと言ってくれた。そう言ってくれるだけで、イルカがどう思ったかは分からないけれど、カカシはその後食べた飯が本当に美味しく感じた。
魚のメニューが多い店で、イルカはブリの定食、カカシは秋刀魚を頼んだ。イルカが気持ち良いくらいにもりもりとブリと白米を平らげるのを見ながら、いつもより美味い秋刀魚を突いていると、イルカに「秋刀魚、お好きなんですか」と聞かれた。不思議そうな顔をされたので、秋刀魚なんか食べるのは普通じゃないのかと思って慌てて、変かと聞くと、そうじゃないと言ってもらえた。「秋刀魚美味しいですよね」と笑ってくれて安心した。
それから「他にどんな食べ物が好きなんですか」と聞かれた。カカシは食べ物に拘ったことがない所か、食べたいと思ったことがない。だから好きだと思うものがなかった。秋刀魚だって良く食べる、名前を知っている魚というだけだ。だけど、せっかくイルカが質問してくれたので、たくさん考えた。そして昔ミナトの奥さんのクシナが作ってくれた、味噌汁のことを思い出した。確か茄子が沢山入っていた。茄子に味噌がかかっている、と言うべきな、汁とは名ばかりなものだったけれど、温かくて、寒い時などに良く思い出していた。だからイルカには茄子の味噌汁だと答えた。
言いながら、これが好きだということなんだと知った。イルカに言われなければ、カカシは秋刀魚も茄子の味噌汁も、好物だとは気付かなかっただろう。
ついでに、「もっと高級なものがお好きかと思ってました」と言われて、多分他人はもっと食事に金を使うものなんだとも分かった。

そして今日も一日、イルカはカカシに沢山のことを教えてくれた。
今日は、ミナトが主催した忘年会であった。そこに、イルカも来てくれて、一日一緒に過ごせたのだ。
十二月に入るとクラブが混むので大分早めではあるが、ミナトはこうした会を欠かさず行う。希望者のみが参加することになっているが、正直言って面倒な会だ。とはいえ、代金はミナト持ちだし、従業員は皆酒好きで仲も悪くない。余程の用がなければ皆参加していた。
しかし、今回、クラブの休憩所に貼られた参加者募集の紙には、ほとんど名前が書かれなかった。
何故なら今回の宴会のタイトルは“燃えろ! お台場! 冬のBBQ!”であったのだ。

「――寒い」
吹き荒ぶ海辺の風の冷たさに、初めに音を上げたのはサクラだった。ミナトの息子であるナルトの友人で、その場で唯一の女の子だ。余りにも参加者が少ないので、サスケと共に、ミナトが連れて来い、と息子に頼んだらしい。ちなみにミナトは良く息子のナルトとその友達を、イベント事に引っ張り出して来るので、ホストたちも皆顔見知りだ。

昼頃各自集合してしばらくは良かった。良く晴れて暖かかったし、レンタルしたバーベキューセットで火をおこしたり、何かと用意に走り回っていたのでサクラも寒さは気にならなかった筈だ。
しかし如何せん、季節はもはや初冬、しかも東京湾のすぐ傍、何も遮るものもなく潮風が容赦なく吹いてくる。食べ始めてしばらく経つと、大人達の間でもビールやチューハイより、お湯を沸かして焼酎やお茶を飲み始める者が出てきた。誰も言わなかったが寒かったのだ。とりあえず見目だけは良い男たちと数人の子どもたちが、背を丸めて火を囲む姿は、カカシなどから見ても異様だった。ちなみに元凶のミナトはクシナと二人でバナナを焼いて喜び、その息子はサスケと温かい缶お汁粉を奪い合ってじゃれている。

「大丈夫か、サクラ」
誰もが炭火で何とかして暖を取ろうと集中する中で、サクラの呟きに反応したのはイルカだけだった。サクラが眉を寄せるのを見て、イルカの方が辛そうな顔をした。イルカは誰かが苦しいと、自分も苦しくなるみたいだった。
「俺の上着、着るか」
イルカも寒いだろうに、何でもないことみたいにそう言った。サクラは一度首を振ったが、少ししてから上目でイルカを見た。
「イルカ先生…良いの?」
イルカは、サクラたちにも先生と呼ばれている。夏頃の試験前に、ミナトに頼まれて勉強を教えてやったらしい。
夏頃といえば、カカシはまだイルカに出逢っていない。何も考えず、何も感じず、紛い物の笑顔で、暗闇の中、先生と呼べる人は一人しかいなかった。
今は違う。サクラたちより少し遅れたが、イルカに出逢い、イルカを先生と呼ぶようになった。イルカが考えることや感じることを想像し、イルカが顔全体で笑うのを見て、ほんものの笑顔というものを知った。暗闇は照らされた。
だから――良い筈がない。良い筈がないだろ、サクラ。
「サクラ、ほら」
イルカが上着を脱ぐ前に、急いでカカシは自分が着ていたジャケットを脱いで、サクラに放った。これでニット一枚になったが、元々寒さには強い方だし、何よりイルカが寒い思いをしない限り、カカシは辛くなどない。
イルカが辛いと、カカシも辛くなる。そう思ったらカカシは、イルカが誰かが苦しいと自分も苦しくなるらしいのが、どうしてだか分かった。それは人間の心の動きとしては自然なことで、他人に優しくする理由はこういうところにあるのだ。それを教えて貰って、寒さなんかどうして耐えられないことがあろう。

「カカシさん……」
しかしイルカは眉を下げて、何故か悲しそうな顔をしている。笑って欲しかったのに、何がいけなかったのだろう。どうすれば良いんだろう。カカシには分からない。
何にもできずにおろおろしていたら、しばらくしてイルカがちょっと目を見開いて、首に巻いていた濃いブルーのマフラーを取った。それから畳んでぽんぽんと軽くはたく。
何をしているんだろうとじっと見ていると、イルカはそれをカカシへ差し出してきた。
「これ、良かったら」
貸してくれるということだろう。しかしそれだとイルカが冷えてしまう。だからカカシは考える間もなく、素早く首を左右に振った。
「でも寒いでしょう。マフラーだけでも少しは違うと思うので」
イルカはマフラーを差し出し続ける。そんなことしないで、早く元のように自分の首元を温めて欲しい。そう思って、「大丈夫です。寒くないんで」と嘘を吐いてカカシは笑った。
するとイルカは多分、傷付いた顔をした。それが傷付いた顔だと、カカシがどうして分かったのかは分からない。何処かで見たことがあったのかも知れない。良くは思い出せない。ただ、カカシには自分がイルカの笑顔を奪っているのだということは分かった。
思わずマフラーごとイルカの手を取った。その後どうしたら良いかなんて分からなかった。イルカの温かい手に触れている指先にばかり意識が集中して、しばらく何にもせずにじっと動けなかった。
イルカは首を傾げてカカシを見てから、ちょっと笑って、マフラーをカカシに巻いてくれた。マフラーはふわふわしていて気持ちが良くて、思わず肩を竦めて鼻まで埋めるようにすると、微かに何かの香りがした。カカシはそれに、蒸気のたちこめる風呂とか、夏前の朝の空気を思い出した。暖かい匂いだ。
「あったかいです」
マフラー自体にか、その香りにかは自分でも分からないけど、とにかくカカシはイルカにそう報告した。
するとイルカは、例の顔全体で笑う、ほんものの笑顔をくれた。
首元がすかすかになってしまって見るからに寒そうだったけれど、マフラーを巻いていた時より満足そうに見えた。
そっか、とカカシは思いつく。誰かが一人で我慢するんじゃダメなんだ。ちょっとずつ分ければ、皆温かいんだから。
また一つイルカに教えてもらえて、カカシは首元から全身が温まっていくように感じていた。


「綺麗ですね」
イルカがもう一度言った。
ゆりかもめは橋の辺りを過ぎて、ビジネス街のビル群へと向かっていくところだった。高いビルの群れから不規則に洩れる白い明かりが沢山見える。
先程と同じように、確かにそれは綺麗だと思えた。
だけど、それはイルカのつやつやした黒い髪や目に反射した光や真っ白な白目の部分のことを思い出すからだ。それ自体が綺麗な訳じゃない。
だからカカシはこう言った。
「イルカ先生の方がずっときれいです」

するとイルカは、カカシが今まで見たことのない表情をした。
何とか表現するなら、怒っているのと泣いているのと笑っているのが全部入ってるみたい、だ。それが何なのか全然分からなくて、カカシは戸惑う。
もちろん、カカシが分からないものなんか、この世に沢山あるのだけれど。









カカシ君は適当に物を言うので、筆が進んで助かります。
というか、イルカ先生はシリアス、カカシは笑い担当、になりつつある。ごめんね、カカシ君。




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