恋は人の全てを変える。
それがミナトの持論だ。理想論かもしれないが、しかし経験論でもある。
ある一人の人に出逢ってから、ミナトの全ては変わってしまった。人生でたった一つの恋だった。
それは新宿のとある店で始まった。

その日ミナトは、大学の講義を真面目に一限から受け、その後のバイトの為に新宿へと移動した。その日の予定の三限まできちんと受けた所為で昼飯を食べ損なっていたので、新宿で何か腹にいれておきたいという思いもあった。
バイトは夕方からで、少なくとも四時間は余裕がある。フルコースさえ食べられる時間があったが、ミナトは朝からずっとカレーが食べたい気分だった。誰でもきっと経験があることだろうが、そういう気分に取りつかれてしまうと、もうそれしか食べたくなくなるものだ。ここで幾ら美味い親子丼を食おうが、パスタを食おうが、カレーでなければ納得いかなくなる。麦茶だと思って口に入れたらめんつゆだった時のような、騙された気持ちにさえなるだろう。とにかくカレーが食いたかった。

だが、ミナトはその街の目ぼしいカレー屋を知らなかった。そう不味くはないが、美味くもない チェーン店なら見かけていたが、ミナトのカレーを求める気持ちはそんなものでは誤魔化されない。大学の最寄駅の周辺はちょっと細い道を行くと美味いカレー屋があったので、どの街でもそういうものだと思い込んでいたが、実はそうでなかったらしい。新宿の裏道を行けども、細々と飲食店はあるのに、カレー屋はない。大学の最寄駅がただ異常にカレー屋が多かっただけなのだ、とミナトはその時やっと気付いた。独り暮らしをしてみて初めて親の有難みが分かった時のような気持ちだった。
うろうろと路地を彷徨ううちに、また大通りへと出てしまう。これは断腸の思いでめんつゆを啜るしかないのかと諦めかけた時、気紛れな運命の女神は、ミナトに微笑みかけた。灯台下暗しとでも言うべきか、大通りに沿った店の看板にカレーの文字を見つけたのだ。早速ミナトはそこへ向かう。
その店の外観は少々草臥れて、というよりはっきり言って薄汚れていた。ラーメン屋で言ったら、「はいお待ち」と丼を差し出される時に必ず指が入っているような感じだ。ちょっと躊躇する。
しかし背に腹は変えられない。ミナトは思い切って店に入った。

店内は意外にも小ざっぱりとしていた。
昼時を過ぎていたのに、それなりに客が入っている。ミナトはそれにちょっと希望を持って、入口に近い席に座り、日本語の怪しい店員がはっきり分かるようにメニューを指差して注文した。 ほどなくカレーがでかいナンと一緒に運ばれてくる。ミナトは待望のカレーを前に興奮しながら、しかし外見上は冷静にそれを口に運んだ。

美味い。ミナトは思わず呟きそうになった。
カレーは美味かった。本格派ではあるが、日本人にも馴染むようアレンジされ、お母さんの料理を食べるようなほのぼのとした素朴さがあった。
ミナトは一気に食った。でかいナンも完食した。途中で日本語の怪しい店員が辛くないかと声を掛けてきたが、それさえ邪魔だった。美味い飯と二人っきりで愛を語っているのを邪魔されるのがミナトは大嫌いなのだ。食い終わってやっと、水を汲んでくれる店員に笑顔を零せる様になった。
まだ早いがバイト先に行って仮眠でもさせて貰うか、と考えながら、店内を眺める。バイトは夜遅くまでかかるから、また明日の講義の為に少しでも寝ておくのが得策だ。今すぐカレー屋を出て、バイト先へ向かうべきだった。
しかし、ミナトの目は店内のある一点に釘づけになり、カレー屋を出られなくなってしまった。

そこにはある一人の女性がいた。
白い肌は滑らか、赤い髪は長く艶やかで、こんな草臥れたカレー屋にいるのが場違いに思えた。しかしミナトが彼女に注目をしたのはそんな理由ではない。
彼女は一心不乱に、正しくそうとしか言えないように、カレーを貪っていた。
とはいえ、ガツガツと忙しく食べていたのではない。ゆっくりと優雅に、しかし恋人の身体を隅々まで愛するように丹念に、集中して味わっていた。
彼女のテーブルには、カレーの入っていたらしい銀のボウルが二皿置いてある。そのどちらも綺麗に、スポンジで洗ったのかと思うほど、一滴のカレーも残されていない。
もちろん、それを食べたのが彼女だという証拠は何処にも無かった。彼女の身体は見た目、余分な贅肉が見受けられないほど細く、そんなに大食いだとは思えないのだ。二皿を食い終わった連れが先に店を出たとも考えられる。
しかし、そうミナトが付けた結論を、彼女は鮮やかに覆した。

「ナンお代わりー。あとカレーもお代わりー!」
彼女は笑顔でそう叫んだ。これぞ満面、と言うべき笑みであった。

「オ客サン、マダ食ベル。もうランチ終ワルー」
不思議な日本語の店員がそう言うのも、ミナトには遠く聞こえた。
彼女の無邪気な声が、彼女のナンで膨らんだ頬が、喜びで潤んだ瞳 が、ミナトの全てを満たしていたからだ。
その瞬間、ミナトは恋に落ちていた。

その後のことを、詳しく語ればまた長くなる。
ともかく、その薄汚れたカレー屋で出逢った女性――彼女はクシナと名乗った――との恋で、ミナトの全ては変わってしまったのだ。

教育学部の勤勉な学生であったが、ただのバイトだったホスト業に、彼女の「私、No1が好きなの」という一言で本気になり、所属する店のトップだけでは物足りず、歌舞伎町で一番と呼ばれるホストにまで上り詰めた。その後、そんなミナトに惚れたクシナと子をもうけて引退したが、経営の方へ回り、やはり歌舞伎町を牛耳り続けている―――


そう、恋は全てを変える。
誰がどう見ても、はっきりと明確に、人を変える。
「ミナト先生、さっき事務所にいた人、誰」
カカシがそう聞いてきた時、ミナトは遂にその時が来たのだと分かった。カカシは全てを変える恋に落ちたのだ。何でもないような風を装っていたけれど、カカシの顔はもうそれまでのカカシとは違っていた。

カカシは、教育学部時代の恩師・猿飛教授の家の居候で、ミナトが教授宅にお邪魔した時初めて会った。その時カカシは高校生だったが、学校にはほとんど行っておらず、教授の屋敷の離れで本ばかり読んでいた。そもそも教授の家へとミナトが招かれたのは、高校へ通わないカカシの家庭教師候補としてであった。お互いの気が合わなそうなら断って構わないと教授は言ったが、ミナトはどうにもカカシのことが放っておけないと感じて、家庭教師を引き受けた。
カカシは口数が少なく表情も少ない子どもだった。ミナトがやって来てもろくに反応せず、だがミナトが出す課題は言われるままに黙ってこなす。
学力から言えば、カカシは高校での授業も、家庭教師も必要無いレベルだった。だがそれだけだ。カカシはどんな難しい数式も解けるし、難解な哲学書を読み概要を的確に説明してさえみせるのに、些細な冗談の交わし合いやほんの少しの微笑さえ出来なかった。
しないのではなく、出来ないのだ。ミナトが熱心に通い半年程経った頃、そうカカシ本人から聞かされた。カカシは頭の良い子だったから、それが他人とは違う、異常なことだという認識があった。だが認識があるだけで、解決策は見つけられないようだった。いや、見つけようともしていないようだった。
抽象的に過ぎるが、言葉で表現するなら、カカシの心は、“空っぽ”だった。
しかしカカシは生まれたときからそうだった訳ではないようだった。カカシ本人によれば、ある程度の兆候はあったとしても、ここまで酷くなったのにはきっかけがあったのだと言う。 切れ切れの言葉や、ちょっとした噂を繋ぎ合わせてみると、大学教授だった父親の自殺と、親友の事故死がそれのようだった。詳しいことは本人が語りたがらなかったので、教授にも尋ねなかった。
ともかく、ミナトは、カカシに勉強させることをすっぱりと止めた。それまでと同じ頻度で熱心に通い、勉強ではなく、ただ雑談をした。他愛のない、無意味にさえ思えるようなくだらないことを話した。カカシは相槌も上手くできなかったし、自ら話すこともなかったから、必然的にミナトばかりが一方的に話しかけた。
そうしながら、ミナトは絶えず表情を出すように心掛けた。嬉しい話は笑顔で、腹立たしい話は怒って、悲しい話ではカカシの目の前で涙さえ流して見せた。
生まれてから一度も笑顔を見たことがなければ、人はきっとその表情を喜びの表現だとは分からない。歯を見せる威嚇と思うかも知れない。人間は一人で全てを知るのではなく、他者から教えられて全てを覚えていく生き物だからだ。
カカシは生まれたての赤ん坊ではなく、過去には確かにそれらを知っていたのだから、覚えるのも早かった。二年程すると、ミナトに合わせて、ぎこちなくも表情を変えるようになった。造詣の美しいカカシの笑顔は、作り笑いだとしても非常に美しかった。
ミナトが大学を卒業すると同時に、カカシは大学に進んだ。クシナと出逢い、ホストの道を進み始めたミナトは、以前のように頻繁にはカカシと会うこともなくなったが、時折は会った。また学校はあまり行っていなかったが、以前よりは遥かに人らしい顔をしていた。
それでも、カカシの心はやはり空ろであるようだった。外側の、表情だけ覚えても、中身が伴わなかった。
以前とは違う、唯一の人に出逢った経験を積んだミナトは、最早それを異常だとは感じなかった。思えばミナトの心も、クシナに出逢う前は、カカシのように空ろだったのだ。それなのに一人前の顔をしてカカシに何かを教えようとしていたなんて可笑しく思えた。
ミナトは、それ以上カカシに積極的にはしてやれることがないと知った。あとはカカシ自身が、何かを見つけていかなくてはならない。
ミナトはカカシになるべく多くの人間に会うように仕組んだ。その人たちから色々なことを学んで欲しいと思った。独立して自らホストクラブを経営するようになり、その店でカカシをバイトさせたりもした。多くの女性に出会えば、自分のように唯一の人と出逢えるかもしれないとも考えていた。

そうして長い時間が経った。
ホストをやるには話術も愛想も足りなかったが、見目の良さと純粋さに惹かれて、カカシはいつの間にか店でナンバーワンになっていた。
そして唯一の人を見つけた。
昔カカシに見せてやろうとわざと色々な顔をしたミナトのそれを地でやる、表情の豊かな人だ。
きっと、カカシは空っぽの心を埋められるだろう。
ホストなんて似合わないものをやらせていたのも、無駄ではなかった。思った通り、カカシの相手はミナトの店で見つかったのだから。
予想とは違って、女性ではなかったけれど。










ミナトさん出張り過ぎで、書きたかったエピソードが入らず、番外編になってしまいました。
次回はちゃんとカカシをホストっぽくしたい。




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