その街の夜は長い。そして明るい。
陽が沈む前から狂宴は始まり、そして陽が沈み、自然の光源が無くなっても人が光を翳して、再び陽が昇るまで照らし続けて夜通し騒ぐ。昼の眩しい孤独の闇を、夜の空ろな幻で埋めるのだ。
カカシはそんな街に住み、ホストとかいう仕事をしている。
その名称にも内容にも、カカシは興味がない。ただ、のたれ死のうとしていた自分を、拾ってくれたミナトの力になりたくて、ミナトの経営する店で働いているだけだ。
やる気はないが、成績は良いらしい。毎月少なくない額の金も転がり込んでくる。ミナトに、いらないと突っ返しても、聞いて貰えない。作らされた銀行口座に振り込んでくれている。
店で会う女たちはとても鬱陶しい。仕事でなければ話さえしたくない。だから最低限の言葉しか交わさない。だが女たちはそんなカカシを指名して高い金を払う。カカシの目を己に向けさせたいのか、あるいは何も言わずに愚痴を聞いてくれる相手が欲しいだけなのかもしれない。
ミナトの為でなければ続かなかっただろう。今までもさして何かに興味があったり、楽しんで生きた訳ではないが、ホストという仕事が今までよりマシだということでもないのだ。
夜は空しい。そこに救いを求める女たちも空しい。そしてそこに生きる自分も空しい。昼間の太陽でも、街の幻の光でも、どれだけ照らそうとそこには闇が続くばかりだ。
しかし、一人の人に出会って、全ては変わった。
その人はミナトの雇う税理士だ。ある時、非番の日の昼に、ミナトに昼飯をたかりに来て見かけた。折り目のついたスーツ、洒落っ気なく一つに結んだ黒髪、真面目そうな目尻、ミナトに向けた満面の笑顔。
ドアの隙間から、カカシに見えたのはそれだけだ。だが、カカシは彼に全てを奪われた。中身のないカカシの空洞を、彼が埋めた。空しい闇は消え去った。
カカシの中で、昼も夜も、最早存在しなくなった。彼のことさえ思い浮かべれば、そこは明るく照らされたのだ。
それからは空しい女たちにも優しくしてやれるようにさえなった。この女たちにも、闇を照らす光と出会えれば良いと願ってやれた。
「カカシ先輩、帰らないんですか」
ヤマトがバーカウンターの中から声をかけてきた。ヤマトは大学の時の後輩だ。ホストではなくバーテンダーとして雇われているが、未だに先輩と呼んでくる。
バーテンダーは、カウンターの片づけをするため、ホスト達などより帰りが遅くなる。奥にはミナトもいるが、店に残っているのはヤマトとカカシだけだった。
「うん、ちょっと」
カカシの煮え切らない返事にヤマトは訝しげに顔を顰めた。いつも店を閉じたら、というより客が少なくなったらさっさと帰ってしまうカカシがいつまでもぐだぐだと意味なく店にいるのだから、ヤマトの疑問は当然だった。
だが、今日は残っていたい、理由があるのだ。話したくはないけど。
「まぁ、良いですけど。じゃあ、最後に一杯作りましょうか?」
ヤマトが言いながら既に酒を手に取っていた。それがカカシの好きなズブロッカの瓶だったのは良いが、その後も何か手に取って注ぎステアしている。カカシはそのまま何も混ぜずに飲みたいと思ったが、ヤマトがあえて何も聞かなかったということは、むしろそれを作りたいからだと分かっているので止めなかった。手際よく作り上げられて出てきたのは、ミナトの瞳の色に似た青いカクテルだった。
「ブルー・マンデーです」
客に出す時のような口調でヤマトが言った。
一口飲む。そう悪くないが、美味くもない。“憂鬱な月曜日”、まるで今日のような。ヤマトはそう言いたかったのだろう。だが、カカシにとって月曜日はそんなものではない。カカシは、グラスを突っ返した。
「あれ、こんな気分じゃなかったですか」
ヤマトが笑って言った。そこまできて、やっとカカシはからかわれていることに気付いた。
「ヤマト、性格悪い」
「すみません。こんな先輩、見たことなくて、嬉しくて」
「ミナト先生に聞いたんだでしょ。あの人も口が軽いよね」
ヤマトは答えず、カクテルグラスを二度傾けて飲み干した。そしてもう一度カカシに向かって笑う。そして、
「――良い月曜日を」
そう言って、更衣室へと下がっていった。
月曜日。それはあの人、イルカ先生がやって来る日だ。
そうミナトに聞いてから、月曜は無駄に居残っている。一目でも会いたかった。もう何もかも分かっているらしいミナトのからかう目線にも負けず、カカシは待った。
そしてこの間やっと会えた。待っている内に、眠気に耐えられず眠ってしまったら、目の前にいたのだ。
ミナトと一緒に事務所に入って来た直後位に何となくは目覚めていたのだが、寝たふりをしていると、イルカ先生は毛布を掛けてくれた。想像していた通り優しい人だった。
その後も、仕事をしているらしい彼の背中を見つめ、幸せな時間を過ごせた。彼が振り向いてからはどうしたら良いか分からず、ろくな会話もできなかったけれど、それでも満足だ。
正面から見る彼は真っ直ぐにカカシを見つめた。偏見や媚びや嫉みなど、今までカカシに向けられてきたどんな視線とも違っていた。髪と同じ真黒な瞳は、女たちの長い睫毛に縁取られ、鮮やかな色で飾られた大きな目より、吸い込まれそうに魅力的だった。それだけじゃない。健康そうな陽に焼けた肌、伸びた背筋、カカシにないそれら何もかもが、カカシを魅了した。
その時はミナトの含み笑いに耐えきれず逃げるように去ってしまった。
今度こそ、きちんと話がしたい。
恥を忍んでミナトに言ってみると、「早く聞いてくれればいいのに」とまたにやにや笑われた。一頻りからかわれた後、イルカは毎週来るのではないが、第三月曜日は必ず来るということを教えてくれた。前は月曜に来るとだけ言っていた癖に、と詰ると、「聞かれなかったから」としれっと答える。カカシをからかえるネタが出来て喜んでいるのだろう。
本当はイルカと話をする時間を作って欲しいと頼みたかったが、イルカも仕事で来ているのだし、流石にそんな小学生みたいな頼み事はし辛かったので我慢した。ミナトもそれ以上何か言う気もする気もないらしく、ただ、「カカシ君ならいつでも事務所に入っていて良いよ」とだけ言った。とりあえずイルカに会うお許しをくれたのだ。
そうして今日。今日は眠らずに待つことにしていた。
毛布を掛けて貰えるのも、背中を思う存分眺められるのも良いけれど、やっぱり顔がきちんと見たい。ちゃんと挨拶して、名前を言って……それから先はどうしたら良いか分からないけど。店に来る女たちにはどうとでも好き勝手なことを言えるのに、イルカ相手だと何も出てこない。でもとにかく何か話すのよ俺、と決意を固めていると、事務所のドアが開いた。
「――あ、」
小さく上がった声はイルカのものだった。ミナトと一緒に部屋に入って来る。
「カカシ君、まだ帰ってないの。珍しいね」
ミナトがにやにやして言った。計算高いミナトのことだから、もしかしたら、ちょっとしたイルカへのアピールも兼ねているのかもしれないが、余計な御世話だ。キッと睨むと、ミナトは笑いながら「ちょっと店の方にいるから」とイルカに言って出て行った。
イルカと二人きりになる。
緊張は尋常じゃなかった。前回は寝たふりで落ち着けたが、今回はいきなり今から寝たふりをするわけにはいかない。何か話さなくちゃと思うと、妙に口が乾いた。“憂鬱な月曜日”でも何でも良いから飲んでおけば良かった。
ぐるぐる考えていると、イルカが先に口を開いた。
「――あの、カカシさん、でしたよね。おはようございます」
あ、そうだ、挨拶しようと思ってたんだ。カカシはそう思った。思い出したら楽になって、すっと言葉が出た。
「おはようございます」
それから、名前も言おうと思ってたけど、必要無かった。なんと今イルカはカカシの名前を呼んでくれていたのだ。多分ミナトが連呼してたからだろう。ちょっと感謝したが、直後に恨んだ。それ以上何を言ったら良いか分からなくなってしまったからだ。
黙っていると、イルカが慌てて言った。多分、カカシがイルカのことを覚えてないと思ったのだろう。
「あ、俺、…私は、税理士の――」
まるでデジャヴュだ。前回会った時も同じような口調でイルカは言った。なんだかおかしくなって、俺も前と同じように答えた。
「知ってますって。イルカ先生、でしょ」
にっこり笑うと、イルカもほっとしたように頬を緩ませて笑った。目だけとか、口だけとかの、作り笑いじゃない、顔全体での本物の笑顔だ。
そんなものを見てしまえば、カカシはもう何も言えなかった。決意だとか何だかももう忘れてしまった。よろめくようにソファに座った。
「…大丈夫ですか? 御気分でも悪く…?」
イルカが心配そうに見下ろしてきたが、近くに寄られるともっとどうして良いか分からなくなるので、ぶんぶん手を振って言った。
「大丈夫です。イルカ先生、お仕事してください。俺のことはお気になさらず」
イルカはやはり心配そうな顔をしていたが、仕事に向かってくれた。
前のように背を見つめながら、こんな何一つ気の利いたことが出来なくて、自分はなんだってホストが勤まっているんだろう、と思った。
背中だけでも見ていられて、やっぱり幸せだったけれど。
やっちまったシリーズ化。
気の向くままに書いていったら、カカシがどんどん阿呆になって困った。
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