「どうして結婚したの」と、イルカが聞くと、
「赤い糸かな」
「運命よ」
父と母はそう言って笑い合った。
両親は二人とも税理士で、小さな事務所を経営していた。仕事も家庭も、二人三脚という言葉がぴったりで、二人で一人の人間のように生きていたから、その言葉もあながち嘘ではないように思えた。
イルカはそれが嬉しくて、両親がぴたりと寄り添う絵を良く描いた。そして自分のことを描く時は必ず、その隣に描いた。
子どもは両親に挟まれるように描くのが普通だからだろう。しょっちゅう、「どうして真ん中に描かないの」と聞かれたが、イルカにとってそれは当然のことだった。
イルカの隣には、いつか描き足すべき人がいるからだ。父の隣に寄り添う母のように、イルカの隣に寄り添ってくれる誰かが、いる筈なのだから。
そんな考えは、友だちには笑われたし、大人には怪訝な顔をされた。しかし両親だけは頷いてくれて、母は「それなら信じて、努力しなさい」と言った。
「どこかにいるその人のために、頑張るの。その人に相応しい人になれるように」


最後の数字を書き終わったペンを置くと、急に背中の方から強い視線を感じた。
イルカの仕事が終わったことを、視線の主は察したのだろう。いや、イルカが昔のことを思い返していた為に、特に意識できなかっただけで、ずっとそれはイルカの背に寄せられていたのかも知れなかった。
最近、その視線は余りにも自然なものになっている。その存在にも理由にも、もう疑問や疑惑はない。ただ、そうやって真っ直ぐに自分を見てくれているということが、少しくすぐったい心地がし、同時に素直に嬉しかった。
「イルカ先生?」
視線の主――カカシが声をかけてきた。そっと、気遣うような優しい穏やかな声だ。だが、そこには少し不安があるように聞こえた。ここにいても良いのだろうか、声をかけても良いのだろうか、と。
イルカは、彼をおいて、一人物思いに耽ってしまったのが申し訳なく思った。
「終わりましたよ」
殊更明るい声で言って振り向くと、ソファに座っていたカカシが立ち上がって近寄ってきた。
東側にある小さな窓から、南に昇っていく陽の光がかろうじて細く入ってくる。陽はカカシの銀の髪を突き刺すように通り抜け、その先の笑顔を照らした。とても綺麗だった。
イルカがそれに見惚れていると、カカシは笑ったまま腕を伸ばし、イルカの座っている椅子の背もたれごと横から抱きしめてきた。立っているカカシがそうすると、上からのしかかられるような格好になり、左肩にカカシの重みを感じた。
お互い楽な体勢ではなかったが、離れたりはしない。厚いスーツ越しでも感じる温もりが心地良く、離れがたかった。きっと、カカシもそう思ってくれているだろう。
同じ気持ちで、ここにいてくれる。
今は少しの疑いもなく、そう信じられた。


『――信じているんじゃないですか?』
そうヤマトに言われた時には既に、カカシを信じている自分がいた。
疑っていた筈のカカシも、そう言ったヤマトも、他の誰とも違う目をしているように見えたのだ。それは優しい目で、“信じているか”と試しているというよりも、全てを投げ出して、“信じている”と言ってくれているように感じた。
イルカは今まで、失うことや傷つくことが怖くて、誰も信じられなかった。どれだけ耳に心地良い言葉を言えど、皆、イルカの元を去っていくのだと思っていた。だが、その目は、失うかもしれないというリスクを知っていてさえ、信じずにはいられなかった。
そして子どものように泣きじゃくるカカシを抱きしめ、それは間違いではなかったのだとイルカは確信した。カカシも自分も、何も間違ってはいない、と。


その後、アスマの恋人である紅に会った。
紅はカカシとも友人だった上に、イルカがカカシと揉めた夜にも店にいたらしい。その時のただならぬ様子が気になって、わざわざ会いに来てくれたのだ。
「カカシと何かあったのね?」
紅がそう、半ば確信しているように聞く。確かに、何かあったかと言えば、あった。しかし何と言えば良いか迷った。
一方的にイルカが怒って、それから仲直りした。それだけのことだが、それで十分とは言えない。もっと根の深いものがそこにはあったからだ。
紅は、話さないイルカの態度を誤解したのか、急に眉を寄せて怒りだし、声を荒げた。
「イルカちゃん、正直に言いなさい! もし、あいつが妙な真似してるようなら、わたしが――」
「違うんです、紅さん! カカシさんは何も悪くなくて……」
今にも飛び出して行きそうに立ち上がった紅を、なんとか押し留めるが、やはり言葉は出てこない。しかしイルカの様子で分かってくれたのだろう、紅は少し考えるように押し黙ってから、優しい声で言った。
「…ねぇ、カカシが嫌な訳じゃないのね? どう思ってるの?」
「どう……?」
カカシは今まで出会ったことのない人だ。カカシといると、自分はこれで良いのだと思える。ここにいても良いのだと――
カカシを思い浮かべ、そう考えていると、紅が小さく笑った。笑いながら、からかうように上目で見つめ、「こんなイルカちゃん、初めて見る」と言う。
「本当言うとね、この前の夜のことアスマに言ったら、頼まれたの。何があったか聞いて来いって。あたしも気になったから来たんだけど……大丈夫ね。悪いことじゃなさそう」
紅はうんうん、と満足げに何度も頷いた。イルカの方は結局何も言わなかったのだが、何かに納得している。イルカ自身よりずっとイルカのことが見えているようだった。
笑顔のまま、紅は去って行ったが、最後に、「アスマが何か煩く言ってくるかもしれないけど」とそれだけ、心配そうに呟く。
「でも気にしないのよ? 何にもね、他人なんて、何にも関係ないんだから」
力強く言われて、イルカは深く頷いた。


左に顔を向けると、カカシの細い髪が頬をくすぐり、光をはらんで輝く銀色に視界は満たされた。
そうだ、何も関係ない。他人に何て言われようと。性別も、職業も、過去も未来も、関係ない。
ただ、今この銀の光の中に包まれていたい。イルカはそう強く思い、よりカカシへ身体を押しつけた。
するとイルカの吐息が当たったのか、カカシがくすぐったそうに身を捩る。
「イルカせんせ……」
小さな声が聞こえ、少し頭が離れた。
ふと空いた隙間に目をやると、思いがけず真剣な顔があった。どうしたのか聞こうとして、止める。代わりに同じ真摯さでカカシを見つめた。
カカシの指がイルカの頬の端に零れた髪を掬い、耳の上を滑っていった。それから戻って来て、手の平全体で頬を包まれた。ゆっくりと分け与えられて、イルカの頬もカカシの温かい手の平と同じ温度になる。
カカシはそうしながら、切なげに眉を寄せた。イルカはそれが気にかかって、どうか苦しまないで欲しいと祈り、カカシがしてくれたように頬に触れた。
そうしてイルカの温度がカカシの頬に移り、カカシの頬の冷たさが自分に溶けていった時、イルカは泣きたいような不思議な感覚に襲われた。胸が痛み、呼吸さえ上手くできない。
間近で揺れる銀の髪と、複雑な色合いを持つ瞳を見つめ、痛みに耐えていると、カカシがやはり何かに耐えかねたように頭を垂れて、よりイルカの近くに寄った。
そして深く吐いた溜息のような声で、そっと呟いた。
「先生…――好きです」

その言葉はイルカの胸をより強く痛めたが、もう不思議だとは思わなかった。痛みの名前が、その言葉と同じだったからだ。
“好き”なのだ。自分は、カカシのことが、今まで感じたこともない程強く、好きなのだ――

「――カカシさん…」
呟くと同時にそれは、カカシの唇へと消えた。
驚くより喜ぶより早く、離れていく。たった一瞬の、触れたか確信できない程微かな接触だった。触れる時ではなく、離れていく時に、何処か迷うような気配があったことの方が、感触よりも印象に残った。
カカシの顔が離れ、瞼が開く。それが、まるで冗談みたいにゆっくりに見えた。
透明な青い瞳がイルカを見て、やっと時間は正常に動き出し、それから何故か二人同時に、吹き出すようにして笑った。

瞳が見えなくなる位、目を撓ませて笑うカカシを見て、イルカは、子どもの頃の絵の、イルカ独りになった沢山の白い部分に、その笑顔を描き足したいと願い、そして、長く待ち望んでいたものが目の前にあるのだと知った。

カカシが横から抱き締めてくる。固く閉じられた腕の中では、イルカはもう独りではない。ずっとこのままでいたいと思った。いや、このままでいられるような気がした。ずっと、何があっても――


そこが事務所だということを忘れそのままでいたら、ミナトに見られ、「カカシ君、だっこちゃんみたいだねぇ」とからかわれたのは、さすがに恥ずかしかったけれど。







10話にしてやっと初チュー…!



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