早朝の新宿ほど爽やかという言葉からかけ離れた場所はない。
閑散とした駅前の広場で、残飯漁りのカラスが喚き立て、それに負けじと酒の香りをさせた男女がけたたましく笑う。ビルの合間から心地良い朝日が射しても、照らされるのは誰かが吐き出した汚濁と夜通し騒いで疲れ果てた飲食店の閉じたシャッターだけ。
折り目のついたスーツを着込み、ネクタイで喉を締め上げている自分が場違いに思えたものだ。

だが九時を越えようとしている今は流石にそんなこともない。前夜も繰り広げられたであろう狂宴などなかったかのように、身なりを整えたビジネスマン達が隊列を組むように駅までの道を規則正しく歩んでいる。
イルカはその波に逆らい、静まり返った歓楽街へと進んだ。狭い道を進むと、時折すれ違う男女から酒の匂いより、洗いたての身体の石鹸の香りがする。この街は何もかも、余りにあからさまで、イルカは一人居た堪れない気分になる。
足早に歩いて、通りに面した、黒を基調とした外観の店に辿り着くと、急いで裏口から滑り込んだ。
「おはようございます」
酒やグラスが詰め込まれている棚の間から、奥へと声をかける。そんなことをしないで自分の家みたいに入ってきて良いんだよ、と社長に言われているが、そう言う訳にはいかない。いくら良くして頂いているとはいえ、いや、だからこそ、仕事としてきちんとしなくてはいけない。
「ん、おはようございます、イルカ先生」
奥の、店側のドアからミナトが顔を出した。金色の髪に、空色の瞳。整った目鼻立ち。すらりと伸びた両手足。まるでモデルか芸能人か、と思えるが、そうではない。イルカの仕事相手の社長である。
「コーヒー淹れるね」
イルカが礼を言う暇もなく、にっこり笑ってミナトはまた奥へ引っ込んでしまった。店内のバーカウンターで淹れてくれるつもりなのだろう。ちょっと迷ったが、ミナトについて店に続くドアを開けた。
ソファとテーブルが並んでいる。革張りのソファは幾分固そうだが、シックで高級感があった。店内は外観と同じく黒を基調とし、アクセントに赤が使われている。イルカは見たことがなかったが、夜になり、照明が落とされると、非日常の雰囲気が醸し出されるのだろう。
「それで、いつになったらうちで働いてくれるの?」
唐突に、ミナトがカウンターの向こうから声をかけてきた。イルカが来るたびに、この人はこうやって誘いをかけてくる。
「俺なんか、無理ですよ。ホストなんて」
イルカはその度にそう答える。

そう、ここはホストクラブ。社長がやけに若くて美系だとしても不思議はないのだ。
「そんなことないよ。人気出ると思う。イルカ君、魅力的だからね」
そう言って社長がウインクなんてして来ても…、そう、不思議ではないのだ。毎夜毎夜、そんなことばかりこの店では囁かれているのだから。
「あ、困ってる困ってる。ごめんね。コーヒーあげるから許してね、イルカ君」
イルカが冗談に返す言葉をなくすと、ミナトが謝って有耶無耶にしてくれる。引き際も鮮やかで、やはりこういった戯れに慣れているんだなと、不器用なイルカなどは感心してしまう。やっぱり気の利いたことなど言えずに、コーヒーを受け取って礼を言った。
「それで、先生。早速で悪いんだけどね――」
ミナトはいつも急に仕事モードになる。カウンターのスツールにイルカを座らせて、ミナト自身は立ったまま、表情を引き締めて話し始めた。イルカも切り替えて話を聞いた。

イルカは税理士である。
ミナトの店の税金と名のつくもののほぼ全ての業務を請け負っている。
それで、こんな場違いなところへもやって来て、つまらない会話をしても許されているのだ。担当になって、もう半年以上も経つが、豪華な店も、綺麗な社長にも、素敵な会話にも慣れない。だが、仕事だけはイルカにも出来る。幸いミナトも信頼してくれているようなので、イルカの精一杯で業務を行えていた。

「ん、詳しい帳簿も必要だよね。ちょっと来て貰えるかな」
話が一段落して、ミナトがカウンターから出てきた。帳簿の置いてある事務所へ回るのだろう。店よりも事務所の方がイルカには馴染みだ。少しほっとする。
黒い店内から一転して白い壁紙の廊下を進み、ドアを開ける。その先はいつもの事務所ではあったが、ただ一つ、いつもとは違った。

事務所の机の後ろに置いてあるソファに、男が一人寝そべっていた。
「あれ、珍しいね。潰れてるの、カカシ君」
ミナトが眠る男に声をかけた。肩に手をやって少し揺するが、うつ伏せに寝転がった男は声も出さずに眠り続ける。
「ごめんね、カカシ君ちょっと疲れてるみたいだから、このまま寝かせといてやってくれる?」
声を潜めて、ミナトが言った。もちろん、イルカの部屋でもあるまいし、異存はない。イルカがこくりと頷くと、ミナトは机に帳簿を広げて、指し示した。カカシという男を起こさないようにだろう、無言でそれを行った。
多分、カカシは店の従業員、つまりホストの一人なのだろう。ホストクラブでは沢山酒を飲まなくてはならないと聞く。夜通し飲めばこうもなる。人によってはホストを、酒を飲んで楽しんで楽して金儲けなんて思う者もいるだろうが、仕事とは概して大変なものだ。ホストにはホストの苦しみがあるだろう。華やかな世界の裏では、月曜の爽やかな朝に、殺風景な事務所の固いソファで寝ている、そんな哀れがあるのだ。
イルカもなるべく物音を立てないように机に向かった。
すると、廊下から人の声がした。ミナトはドアから顔を出して覗き、少し頷く。
「ごめんね、ちょっと店の方にいるけど、何かあったら呼んでね。事務所はいつも通り好きに使って良いから」
ミナトがイルカに向かって小声で言う。来客か何かなのだろう。イルカは頷いた。必要なものさえあれば、ミナトがいなくても大丈夫だ。疑問点があれば、後でまとめて聞けば良い。ミナトはにこりと笑って、事務所を出て行った。

一人になった、いや、正確にはソファで眠るカカシと二人になったイルカは、早速仕事を片付けようとしたが、目の端に入るカカシが気になった。
カカシは蹲るように寝ているので、寒そうに見えるのだ。革のソファでは体温を奪うばかりだろう。暖房はきいているが、もうすぐ冬になろうかという季節の朝だし、睡眠中は体温が下がる。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
イルカはお節介かとも思ったが、事務所の棚にある毛布をカカシにかけてやった。以前ミナトが仮眠に使っていたのを見たことがあったのだ。
カカシは柔らかな感触に気付いたのか、寝返りを打ち、毛布を引き寄せて眠り続けた。
それを見てやっと、イルカは満足して仕事に向かった。

そうしてしばらく経った。
時折エアコンの送風音と、イルカ自身が立てる物音がするばかりで、集中できた。後はミナトに報告するばかりだ。帳簿を閉じ、背伸びをすると、ふと、背中に視線を感じた。イルカは振り返った。
カカシが目覚め、こちらを見ていた。ソファの上で横向きに寝そべったままで、眠そうに瞼は半分閉じてはいたが、確かにイルカをじっと見ている。
瞳は青かった。いや、青だと言いきるにはそれは余りに複雑な色合いをしている。ミナトの、青としか言いようがない、真夏の空のようなそれとは違う。灰色がかった薄い青は、明け方の海を思わせた。それを何色と呼ぶのか、イルカは知らない。
黒っぽいシャツのボタンを三つほど開けて寛げた首元から白い肌が見えた。胸は真っ平らだし、シャツの下の肩は骨張って、紛れもない男だと分かるのに、イルカは、色っぽい人だなぁと思った。

「――あ、俺……私は、税理士の海野と申します」
しばらく見惚れたイルカは、ふと我に返り、不審がられない為に名乗った。イルカはいつも月曜の朝、ホスト達がいなくなった後にここに来るから、ホスト達には一人も会ったことがない。カカシにしてみれば、突然知らない人間が事務所にいて戸惑っただろう。
そう思ったのだが、カカシからは予想外の答えが返ってきた。
「知ってます。イルカ先生、でしょ」
そう言って、ふんわりと笑んだ。それから、寝起きだからだろう、のんびりとした動作で身体を起こして座った。ソファからはみ出していた脚がゆっくりと床に下ろされた。角度がつくと、長さが際立つ。
「毛布、ありがと」
まるで子どものような言い方だったから、それがカカシから発せられた言葉とはすぐには思えなかった。カカシは返事がないことを不審に思わなかったようで、また優しい笑みを浮かべた。イルカはただぼんやりとカカシを見てしまう。
綺麗な人だ。男に対する形容詞として不適切かもしれなかったが、それ以外にカカシに相応しい言葉は、少なくともイルカは知らなかった。そう思えば、さっき悩んだカカシの瞳の色も、色の名前は知らずとも、表現する言葉は知っていた。綺麗、と言うのだ。
イルカはいつも新宿の街で、違う星に来てしまったような、自分が場にそぐわないという、居た堪れなさを感じていた。しかしカカシのように綺麗な人間はもっと、新宿には似合わない気がした。薄汚れた早朝の空気も、行儀良く並んだスーツの列も、歓楽街の夜の煌びやかな闇の中にも、カカシは埋没せずに美しく際立つだろう。

「――起きたの、カカシ君」
何時の間に来たのか、ミナトの声がした。ドアの所に背をもたれてこちらを見ていた。
「ちゃんと帰って、ベッドで眠らなきゃ駄目だよ」
まるで母親のような口調だ。にこにこ笑っているところを見ると、からかっているのかもしれない。
「分かってまーすよ」
カカシが拗ねた子どものように答え、毛布を軽く畳んでソファに置いた。立ち上がると、上背がある。割合高めのイルカより背が高かった。
イルカがそれを見ながら、何かかけるべき言葉があるかどうか迷っていると、カカシはイルカに向かってもう一度笑った。
「イルカ先生、今度お店に遊びに来て。俺を指名してよ」
そう言って、ミナトの横をすり抜けて去った。

それを聞きながらイルカは、やはりカカシもホストなのだ、と今更ながら思った。
そして、それが何故か悲しいような、あるいは失望のようなものを感じた。それが何かは、分からなかったけれど。










多分シリーズ化します。
ちなみに管理人は税務にもホストクラブにも詳しくありません。悪しからず。




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