その男が初めて現れたのは、父の葬儀の夜だった。
 ふと蝋燭が揺れて、気がつくと祭壇の前に立っていた。
 黒い髪と、青鈍色の長いジャケットが、薄明に溶けるように馴染んでいる。カカシが気付かなかっただけで、彼はもう長い間そこにいたのかも知れなかった。
「あんただれ?」
 問うと、男は振り向いて、カカシを見た。
 男の目には、いっぱいに涙が湛えられていた。それはカカシがその日会った大人たちの誰とも違う目だった。隠し立てされることも、奇妙な複雑さもない、混じり気のない悲哀で満ち満ちていたのである。
「カカシさん…?」
 男は呟いて、より一層哀しげに顔を歪ませた。今にも泣き出すと思われたが、ぐっと唇を噛み締めて耐えたらしい。笑い皺だろう目尻の深い溝に、涙が円く留まっていた。
 何故か、彼が何者であるかより、その透明な雫の方が気にかかった。カカシがじっとそれを眺めている内、男はこちらに近づいてきた。
 カカシの前で跪き、両腕を広げる。その左手に巻物が見えた。
 忍びとして恥ずべきことに、カカシはその時ようやく危機を察し、腰のクナイに手をやろうとした。
 が、遅かった。男の腕がもう、カカシに触れていた。
 死ぬのなら、死ぬのだろう。そう考え、緊張した肩から力を抜いた。カカシは疲れ切っていた。本当は指一本動かしたくもなかったのだ。
 しかし、予想した痛みは、やってこなかった。
 男はカカシに刃を突き立てることも、術をかけることもしなかった。
 ただ――カカシを抱き締めていた。
 ぼんやりと、こんなに誰かと身体が触れるのは、いつ振りだろうと考える。多分、父が元気だった頃だろうが、思い出せなかった。
 つかれた、とカカシは呟いた。
 男の手が、ゆっくりとカカシの背を撫でる。大きな、温かい手だった。
 カカシはほとんど気絶するように、その場で眠りに落ちた。
 翌朝目覚めると、男はいなくなっていた。
 
 次に現れたのは、オビトの眼を貰って数日後だったと思う。
 カカシは高熱で朦朧としていたので、それが本当に彼だったかは分からない。
 ふと浅い眠りから覚めると、あの夜と同じ目が、カカシを見ていた。
 誰だ、どうして、どうやって、と当然思うべき疑問は幾つもあったが、やはりカカシは疲れ切っていて、何も考えられなかった。
 ただただ、額の辺りに触れている男の手が冷たくて心地よかった。それに集中していると、痛みが和らぐ。カカシは目を閉じて、もう一度眠った。
 
 その次は、リンを殺した日の夢を見た夜だ。
 手が濡れている、と思って起きた。一瞬、血だろうと考えた。だが粘ついて嫌な臭いのするそれとは全く違って、さらりとした清らかな感触だ。
 何だろうと目を開けて、手の方を見る。透き通った温かい水が、はたはたと落ちてきていた。
 あの男だった。祈るように、カカシの手を捧げ持ち、頭を垂れている。
 彼は、カカシの眠りを妨げないようにか、声を殺して、静かに泣いていた。澄んだ黒い瞳から、滾々と湧き出る泉のように、涙が後から後から溢れ続け、カカシの手に零れ落ちた。
 まるでそこに染み付いた血を、洗い流そうとでもしているのかのようだった。
 無理だよ、とカカシは思った。それは落ちない、どんなに洗っても。
 だからもういい、あんたが泣くことはないよ。カカシはそう言ってやりたかったが、声には出来なかった。もう少しだけでもいいから、その手と涙の、温かく清潔な感触を、感じていたかった。
 
 九尾の事件の後は、男はいつもと少し様子が違った。
 悲哀は一層深いのに、涙の気配がない。いつも潤っていた目は乾き、深く澄み切って、どこか遠くを見ていた。
 目が合うと、男は微笑みを浮かべた。無理に作られた、弱々しいものだ。
 それからカカシの頭を撫で、そっと抱き締めた。その腕も、包むようではなく、どこか縋るような頼りなさがあった。
 カカシは彼と、何かを共有している気がした。それは、大切な誰かを失った、悲しみか。もう二度と会えない、寂しさか。ただ守られた、無力感か。
 初めて、カカシの方からも男を抱きしめ返してやった。
 幼い頃よりカカシの背は伸びている。近くなった男の喉から、隠しきれない、嗚咽を耐える音が聞こえた。
 しばらくそうした後、男はふっと、煙のようにかき消えた。
 
***
 
 つまり男は、暗い夜に現れ、欲しいものを与えてくれる、都合の良い幻だったのだ。
 長じるにつれ、カカシはそう考えるようになった。
 どこからともなく現れては消える男。これが現実と思う方がイカれている。もちろんそんなものが見える自分は正気ではないということだが、どうせイカれているのなら、自覚があった方がいい。
 あれは、幼く、弱い心が見せた幻だ――自嘲を込めて、そう結論付けられるようになったカカシは、十代を終えていた。
 
 久しぶりに男が現れたのは、ちょうどその頃だ。
 任務を終え、纏わりつく全身の返り血をどうにか洗い流し終えたら、寝室に、彼は立っていた。
 カカシは驚きと共に己への嫌悪を感じた。まだこんなものに縋ろうというのか。
 数年経ったというのに、男の様子は変わっていない。姿形も、気遣わしげな瞳も。そしてカカシを慰めんと伸ばされる優しい手も。
 だが、カカシの方は違った。もう、抱き締められるだけで満足する小さな子どもではない。
 
「ねぇ今夜はすぐに消えないで。一晩くらい付き合ってよ」
 カカシの頭に寄せられた手に、指を絡めて言った。
 男は何も分からない様子で、無邪気に、僅か首を傾げる。だがその指に口付けながら、もう片手で腰を引き寄せてやると、ようやく意味が分かったらしい。目を見開いて、カカシから身体を離した。
 カカシは眉を顰めた。
 何故、拒否するんだろう。この男は欲しいものを与えてくれる筈だったのに。そう考えてから、激しい苛立ちを感じた。期待外れの男にも、幻に縋ろうとする弱い自分にも。
 長く獣の面を着けてきて、己を押し殺すことに慣れきった筈だった。欲しいものなど何も無かった。それなのに、今カカシは男が欲しいという気持ちを抑えきれない。
 この男はいつも、カカシが闇の中に隠したものを照らし出して、暴き立てるのだ。
 
 男はこちらを見つめ、本気か探っているようだ。
 カカシが一歩近づくと、左手に持った巻物を握りしめるのが見えた。
「また消える気?」
 反射的に男の手を掴んで捻る。巻物が床に転がった。
 まだ分からないが、男がどこにでも現れるのには、その巻物が鍵なのではないかと考える。幻とばかり思っていたが、時空間忍術だったのだろうか。
 まぁ、どちらでもいい。
 カカシは男を抱き寄せ、きつく拘束しながら、長いジャケットに隠された尻を乱暴に揉んでやる。年嵩の男の尻などどうとも思っていなかったが、彼のそこは意外と肉厚で柔らかく、官能的だった。これが欲しいと、カカシの股間が素直に反応する。
「やめ、っ、だめだ、こんなこと…!」
 男はカカシを押しのけようと藻掻いた。悪くない忍びのようだ。拘束を外そうとする動きは的確だった。
 カカシは、殺さずに拘束するのはそう得意な方ではない。だが戦意を失わせる術は良く知っている。力の差さえ見せてやればいいのだ。そしてカカシは容赦なくそうした。逃げられないと分かるまでそう時間はかからない筈だった。
 しかし男はいつまでも諦めない。必死に巻物に手を伸ばそうとするのを止めなかった。
 
 そんなに拒絶するのか。そんなに離れたいのか。そんなに、消えたいのか。
 そして自分はそれを止められないのだ――
 不意に空しくなって、腕から力が抜ける。
 男がカカシから逃れて、巻物を拾い上げた。
「そう……俺の前からいなくなるんだ、あんたも」
 カカシは知らぬ間に、そう呟いていた。それは自分でも驚くほど頼りなげな、寄る辺ない幼子の声だった。
 男ははっとした様子で振り返り、カカシを見た。途端くしゃりと顔が歪み、瞳が哀しげに揺れる。
「違う、いなくならない……俺は、いなくなったりしない…!」
 痛切な声で男が叫ぶ。だがそれは、あからさまな嘘だ。男はいつも消えてしまうくせに。誰も彼も皆、いなくなるくせに。
 嘘を吐くなら、もっと良い嘘が欲しかった。温かい肌で包み、一夜だけの愛を囁き、愛撫に大げさに啼いて、たわいない睦言で楽しませてほしかった。今のカカシには、それが必要だったのに。
 それを与えてくれないのなら、どこへなりと行ってしまえばいい。
 カカシはベッドへ座り込み、男の姿を見ないように頭を垂れた。
 
 しかし一向に気配は消えない。しばらくすると、むしろ近づいてきた。
 ベッドが揺れる。男が隣に座ったのだ。
 そしてカカシの肩を抱き、引き寄せてきた。鼻先が男の鎖骨の辺りに押し付けられる。彼からは、どこかで嗅いだことのある匂いがした。よく知っているのに、それが何だか思い出せない、不思議と懐かしい匂いだった。
 深く息を吸いながら、伸び上がって、男の首筋に顔を埋める。素肌からはもっと良い匂いがして、カカシは溜め息を吐く。
 男はそれにふるりと身体を震わせた。
 堪らなくなって、そこに口付けた。ゆっくりと上へ移動していきながら、男の目を覗き込む。澄んだ瞳が真っ直ぐにカカシを見ていた。
 吸い込まれるように、唇を合わせる。
 彼はもう、逃げなかった。

 清潔で禁欲的な姿を乱すのは、こんなにも興奮するものなのか。
 元々乱らな格好や内面をした者たちとしか戯れたことがなかったから、カカシはそれを初めて知った。
 身体の線を見せないジャケットを脱がし、きっちりと一つに括られた髪を解く。たったそれだけの行為が前戯になる。見えなかった肌が晒され、長い髪が頬に垂れると、彼の特別なものを見せてくれたような気持ちになった。

 いつになく昂って、男をベッドに押し倒し、熱心に肌をまさぐる。
 カカシの愛撫を受ける彼の顔は、見るからに羞恥と葛藤に苛まれていた。
 だが、身体の方は違っていた。カカシの手に敏感に反応し、なおかつその先を望んでもどかしげに身をくねらせる。小さな声をあげるのも隠さない。愛されることを素直に受け止める、慣れた身体だった。
 それが面白くないのか、都合がいいのか、自分でも分からないまま、性急に事を進めた。
 足を開かせ、尻に指を滑らせる。男の腿がぎゅっと張り詰めたが、抵抗はない。指先を中に潜り込ませても、腰を僅か震わせただけで、驚きも嫌悪もないようだった。カカシは一気に指を突き入れる。
 まとわせた軟膏が男の高い体温で溶けていく。指にぴたりと張り付いてくる内壁を揉み込めば、粘ついた水音と、男の掠れた声が同時にあがった。
 この行為をよく知っていると全身で訴えられては、我慢するのも馬鹿らしい。カカシは指を引き抜き、猛った自身をそこに宛てがった。
「……あ、…っ!」
 入り込む一瞬、男は痙攣するように跳ねあがり、カカシの腕を掴んだ。僅かに押しのけるような仕草をしたが、すぐに力が抜ける。合わせて、肉の輪が緩み、カカシの先端を受け入れた。
 中は熱く絡みつくが、柔らかい。大した抵抗もなく、ずぶずぶと埋まっていく。尻たぶを割り開いて繋がった場所を見れば、切れてもおらず、むしろ物欲しげにきゅうきゅうと収縮していた。
「はは、すごいね、あんた」
 カカシは思わず笑った。こんな身体は初めてだ。油断すればこちらが持っていかれそうなほどにイイ。
 視線を上げると、男と目が合った。彼はこちらを蕩けた瞳で見つめている。カカシはますます笑みを深め、ゆっくりと抜き差しし始めた。
「ぁっ、あ、ぁー…カカシさ、ん…!」
 名を呼ばれながら、上機嫌でカカシは腰を振った。
 男の身体は誂えたようにカカシにぴったりだった。探るまでもなく、ただ突き入れるだけで男のイイところに当たるようで、律動の度に掠れた高い声が上がる。揉み込むように締め付けてくるのにキツすぎず、柔らかく包んでくれるそこは、カカシの方にも抑え難い溜め息を吐かせてきた。
 このまま抱きしめて、キスをして、全身で繋がりながらイキたい。カカシは浮かれたことを考え、上体を倒して男に覆い被さった。
 唇を寄せようとして、気付く。男の視線はカカシと絡みあわず、顔よりもっと下に投げかけられていた。
「見たいの?」
 俺をいっぱいに咥え込んだ、あんたの淫らな穴を? 言外に含ませ、にやりと笑いながら男の腰を持ち上げてやる。
「ち、が……ッ!」
 そう彼が否定したのはただの戯れだと思ったが、そうではなかったらしい。確かに、彼は結合部よりももっと上の辺りを見ていて、震える手を伸ばしてきた。
 カカシの胸から腹の辺りにかけて、斜めに指先を滑らせる。それを反対側にももう一度繰り返し、斜めの十字を描いた。
 彼の顔は泣き出しそうに苦しげに、しかし愛しげに、そこに触れた。

 カカシの浮かべていた笑みは瞬時に消え失せた。
 その遠い目が見ているのは、カカシではないと、すぐに分かった。明らかに、そこに古傷か何か特徴のある誰かを、思い浮かべているのだ。
 他の男の影を、ここまで見せつけられて、カカシは遂に嫉妬を自覚した。
 俺を見てよ。俺を撫でて。俺を、抱きしめてよ――そう叫びたかった。しかし、
「はっ、余裕じゃない。遠慮してたのが馬鹿みたい」
 代わりにそう吐き捨てていた。
 彼の足首を掴み、ほとんど尻が天を向くほどにまで、ぐいと押し上げる。どこにも逃げられない体勢をとらせ、ずるずると抜ける直前までゆっくり引き抜いてから、一気に根本まで突き入れた。
「ひ、ッ――」
 彼は喉の奥で小さな悲鳴をあげた。どれだけの衝撃を感じたのかは、彼の中が強烈に締まったことで分かる。
 その隘路を無理矢理押し開き、奥の奥まで犯し尽くした。
 上から押し潰すように体重をかけて、勢いよく腰を落としていく。ばつんばつんと、肉と肉のぶつかり合うその音は、今まで聞いたことがないような激しさだった。
「ゥ、ア゛、アッ、あ、ぐッ」
 打ち付けるたび、彼が声にもなっていないような短い音を発する。
 ほんの一瞬、壊してしまう、と頭の片隅で考えた。
 だが止めてやれなかった。打ち付ける腰を止めることが出来ない。
 ただ醜い嫉妬をぶつけただけだった筈のそれに、次第に夢中になっていた。
 こんな何もかも忘れて全力をぶつけるセックスは初めてで、新鮮だったのもある。だがカカシを最も昂らせたのは、この行為で、男が快感を得ているようだということだった。
 半分に折りたたまれた彼は、ちょうど顔の上にペニスがくる体勢になっている。それはしっかりと勃起していて、そこから先走りにしては多い粘液をぱたぱたと、自らの頬に垂らしていた。
「イイ…んだ? こんなこと、されて……ッ」
 囁くと、焦点の合わない蕩けた顔が小さく頷く。
 それでカカシは最後の理性を手離した。壊してしまえばいい。そうすれば、彼は俺のものだ。
彼の足を強く抑え直し、滅茶苦茶な勢いでガツガツと打ち付け始めた。
「ひ、ン、…! あぁアアアァ…!!」
 悲鳴をあげ、すぐに彼は後口だけで極まった。勢いよく噴き出した精液が、彼自身の胸や顔に撒き散らされる。構わずカカシが動き続ければ、更に奥を突く度にびしゃびしゃと少しずつ吐き出した。
 望み通り壊れたように達し続ける男を見て、カカシの限界も早かった。
「は、ッ、イ、く……!」
 射精の為に更に乱雑に突き上げ、最後に力いっぱい打ち付けると、彼の奥深くに、吐き出した。

 その時、男はか細い声を上げて藻掻いた。
 逃さない、とカカシは強く押さえつけたが、彼は逃げようとしたのではなかった。折りたたまれ抑え込まれても、彼は必死に藻掻いて、そしてカカシに両腕を差し伸べたのだった。
 こんなに好き勝手に蹂躙され、身体中白く汚されて、焦点の合わない目でガクガクと震えながら、それでも受け止めようと手を伸ばしてくれた。
 きっと、それが彼の慣れたやり方なのだ――カカシは呆然と、誰かを求める彼を眺めた。
 その手を取ることはカカシにはできなかった。
 ここまで彼の身体と心を開いた誰かが、心底に羨ましかった。

 差し伸べられる腕を無視して、のろのろと起き上がり、彼から身体を離す。
 あんなにぴったりと繋がっていたものが呆気なく分かたれて、カカシの身体は独り冷えていった。ひどい有り様にしてしまった男の後始末くらいしてやるべきなのに、見ていられなくて目をそらした。
「……こっち、きて、…カシさ、」
 ひび割れた声が痛々しかった。
 そっと窺うと、男は辛いだろう身体を起こしてまで、まだ手を伸ばしている。放っておけず、カカシはおずおずと近寄った。
 彼は、カカシを引き寄せて、その腕に抱きしめてくれた。
 裸の胸が触れ合う。さっきまで身体の奥深くで繋がっていたくせに、こんな風には肌は合わせていなかった。やっと知った彼の肌の心地よさに、カカシは思わず目を閉じた。
 彼の肉体には、女の肉とは別種の柔らかさがあった。
 弾かれるような張りがないが故に、じんわりと沈み込むように肌が馴染む。触れ合ったところが同じ温度になり、彼と自分との境目が曖昧に感じられた。
 人とこんなに肌を合わせたのはいつ振りだろう。ずっと幼い時にも考えたのと、同じことを思った。その時も相手は同じ男だった。それでカカシは、あれ以来、彼以外抱きしめたいとも、抱きしめられたいとも、思わなかったと気付いた。
「カカシさん……」
 男がカカシの名を呼ぶ。滴るような情に溢れた、深い声だった。
 そして優しい手がカカシの頭を抱いて、幼子を慰めるようにそっと撫でた。何度も、何度も。

 受け入れられている――不意に、カカシは理解した。
 彼の腕が、手や声が、カカシにそれを教えてくれた。思えば幼い頃からずっと、そのどれもがただ一心に嘘偽りなく、カカシの全てを包み込み、愛しいと囁いていたのだ。
 幻か現実かも、他の男の影も、もうどうでもいい。カカシは腕を伸ばし、彼を強く抱きしめ返した。今、彼はここにいて、カカシを受け止め、愛してくれている。それ以外もう、何も要らなかった。

「ねぇ、もう消えないで。ずっと俺の傍にいてよ」
 男を抱いて囲い込みながら懇願する。
「俺にはあんたが必要なんだ。あんたに会えなかったら、俺はどうなってたか」
 言い募るカカシに、反して彼は穏やかに微笑んだ。
「いいえ、俺に会わなくても、あなたは大丈夫だった。俺は知ってます」
 そんなことないのに。思えばいつだって大丈夫なんかじゃなかった。カカシは情けなく顔を歪める。
 その頬を、彼は両手で包んだ。大丈夫と優しい声が繰り返す。
「俺はよく知ってる――あなたの中には決して消えない、温かい光があるんです」
 ここに、と言いながら、カカシの胸に手を置いた。
「どんなに暗い時でも、それがあなたを照らして、生かしてくれる。だからあなたは大丈夫です」
「何を言ってるのか分からない……俺には、何も無い、もう誰もいないんだよ…」
 カカシは俯き、目を閉じた。途端、全てが黒く塗りつぶされる。
 こうして瞼を閉じた世界が、カカシの人生だ。真っ暗闇で一人きり。光なんてどこにもない。これから先も、それが延々と続いていくだけ。
 もう慣れた筈なのに、改めてその闇を見据えると、不意に激しい恐怖を感じた。今まで何とか耐えてきたのは、そこに誰かがいたからだ。だがもう知ってしまった、大切な人達はいつもいなくなってしまう、と。
 そしてこの男も、きっといなくなる。ならば、もう。
「もう無理だ、もう――」
 ――終わりにしてほしい。
 誰にも言わなかった言葉を、カカシは呟いていた。
 奥底に押し殺し続けたそれが、あっさりと引き出されてしまったことに呆然とする。この男の前ではカカシは何も隠せなくなってしまう。
 本来なら、それを願うことすら自分には許されないのに。この身体や命はただ贖罪のため、里を守るためにあって、もはやカカシ自身のものではないのだから。
 カカシは奥歯を噛み締めた。いつまでも弱く、不甲斐ない自分が許せなかった。

「そんなこと、言わないで…どうか」
 震えた声が耳をうち、はっと我に返る。
 顔をあげて見ると、彼の目はいつかと同じように涙でいっぱいになっていた。カカシと目が合うと、それは更に溢れ出し、瞬きの拍子にぼろぼろと零れ落ちる。
 カカシは悔恨も慰めも忘れて見入った。それが余りに清く澄んで、そして痛々しかったからである。
 彼はそうして身も世もなく泣きながら、悲痛な声を上げた。
「どうか――俺に会いに来て、カカシさん。お願いですから。俺は、あなたに会いたい…会いたい、会いたいんだ……!」
 それは、激しい慟哭だった。魂からの祈りだった。こんなにも深く真っ直ぐな哀切を、人が持ち得るなど信じ難いほどだった。
 貫かれるように胸が痛み、カカシは彼を無我夢中で抱きしめた。
「どうすればいい……? 俺も、あんたに会いたいよ」

 彼はカカシの腕の中で嗚咽を漏らした。
 だがいつまでもそうしていてはくれなかった。涙を自ら拭い去り、再び頭を上げた時には、彼はもう泣かなかった。もはや俯かず、背をきりりと伸ばして、真っ直ぐにカカシを見つめる。
 そして凛とした調子で言った。
「生きてください、何があっても」
 わかった、とは言えなかった。今までもこれからもカカシは忍びとして生きる。それは守るべきものの為に死ぬことを意味するのだ。
 黙り込んだカカシに、彼は返事を求めなかった。ただカカシの胸の中央に手の平で触れた。温かさが、じんわりと胸の奥へと広がっていく。カカシはそれをもっと感じたくて、上から自分の手を重ねて強く押し当てた。
 だが、その感触はすぐに感じなくなってしまった。
 見下ろすと、男の指先から順に、掻き消えていくところだった。
「忘れないで。あなたは、大丈夫ですよ」
 消えていきながら、彼が微かに笑んで言う。カカシは思わず口を開いたが、やはり何も言えなかった。

 代わりに伸ばした手が、空を切る。男はもういなくなっていた。
 ベッドのすぐ下に、巻物だけがぽつんと落ちている。これはいつも男が現れる時、その手に持っていたものだった。それが残されているということは、もう、彼は現れない。どういう仕組みかも分からないのに、何故かそういうことだと確信していた。
 消えてしまった。いなくなってしまったのだ。他の皆と同じように。
 カカシは巻物を拾い上げ、ベッドの縁に腰掛けた。目を閉じると、漆黒の闇がカカシを包み込む。そこには何もない、誰もいない。いつもそうであったように。

 だが――どうしてだろう。
 温もりが消えていかなかった。男の高い体温を、背や胸に感じる気がした。
 失ったそれは、いつか忘れる。遠い過去となってしまえば、思い出せなくなるものだ。
 しかし今この瞬間は、そんな日が来るとはとても信じられなかった。
 あの偽りのない瞳が、カカシの為に泣いてくれた涙が、抱いてくれた腕が、慰撫する手が、開いてくれた身体が、慟哭のような願いが、カカシの心に刻み込まれて、もう二度と消え去ることはないように思えた。

 ふと、眩しいと思った。きつく閉じた瞼さえ刺し貫く光を感じた。
 目を開けると、カーテンの隙間から射した陽が、カカシの手を明るく照らしている。いつの間にか、夜は明けていた。

 カカシは立ち上がり、カーテンを開く。
 窓を開けると、穏やかな風が吹きこんできた。撫でるように優しく、カカシの髪を揺らす。大丈夫と、彼の声が聞こえたようだった。
 遠くには、ちょうど昇ったばかりの太陽が火影岩の上にある。
 朝陽に照らされて、四代目の顔岩がまるで在りし日のように金色に光り輝いていた。そして彼に見守られ、包まれるように、里全体も光に満ちている。
 それを眺めていると、この里を守った人たちのことを、カカシを守ってくれた人たちのことが自然と思い出された。そうしながら澄んだ空気を大きく吸い込み、そして吐いた時、カカシは自分がまた一つ暗い夜を乗り越えたことを知った。

 男はカカシを受け入れて、助け、生きろと願ってくれた。
 だが思えば、それは彼が初めてではなかった。カカシにそうしてくれた人たちの顔が幾つも思い浮かぶ。もうここにはいない人の方が多い。だが――
 カカシは、さっき彼が触れてくれた胸の辺りを手で押さえた。ここにまだ、残っているものが確かにある。それは心に刻み込まれ、決して忘れられないものなのだ。
 彼の言った、消えない光とは何か、分かった気がした。


***


 イルカが目覚めると、男の腕の中だった。
「大丈夫?」
「カカシさん…」
 己の背を抱えてくれている男の名を呼ぶ。さっきまで抱き合っていた人と同じ名だ。しかし男は、彼よりもしっかりとした体躯に、穏やかな顔立ちをしていた。
 それでイルカは、自分が在るべき場所に戻ってきたことを知った。

 そこはカカシと共に住む家の、共用の書斎だった。
 イルカがアカデミーから帰り、そのドアを開けたら、見慣れぬ巻物が落ちていた。どこかの棚から落ちたのだろう。イルカがそれを拾い上げると、意思を持って独りでに動いたかのように自然と封が解け、煙に包まれた。口寄せされるのに似た感覚を感じた。
 そして次に目を開けると、そこには幼い頃のカカシがいたのである。
 それから何度かまた術が発動する感覚を覚え、その度少しずつ成長したカカシに会い、大人と言える年頃になるまでを見守った。
 あれは一体なんだったのだろう。

「――浮気はよくないよ、イルカせんせ」
 考え込んでいると、不意に、からかう口調でカカシが言った。
 イルカは目を見開く。さっき若いカカシと何をしたのか、彼は知っていると言うのか。はっと自分を見下ろす。着衣に乱れも、身体の汚れもない。ではまさか、あれは。
「……相手が、あなたでも?」
 もしかすると、と予想したことを仄めかせる。それが正しかったようで、やはりカカシは驚くこともその意味を問うこともしなかった。
「ああ、やっぱり。昔の俺の所に行ってたんだ?」
「じゃあ…あれは夢でも幻術でもなくて、本物のあなただったんですか? 過去の?」
「そうだね。少なくとも俺はあなたの記憶がある」
「そんなこと知らなかった……教えてくれればよかったのに」
 カカシはふふと小さく笑い声を漏らした。
「言えないでしょ。頭がおかしいと思われちゃう。それに俺もただの幻かもと思ってたしね。あの数年後にあなたに出会った時も、確信は無かったよ。その時はあなたはまだ若くて外見が少し違っていたから。今、あれはこの歳のあなただったんだな、って思ってるところ」
 イルカを支えて立ち上がらせてくれながら、カカシは上機嫌に笑っている。

 イルカはまだ混乱しながら、あの巻物は、と見回してみた。
「ああ、あれは俺が持ってる筈です。あの頃の、過去の俺が」
 昔カカシは、イルカが消えた後残っていた巻物をずっと保管しておいたと言う。それを今日イルカが触れたことで過去へと飛び、巻物はまた若い頃のカカシへ渡ったということか。
「あれは一体、何なんでしょう?」
「分からない。時空間忍術の一種だとは思うけど……調べたことはないんです。もし下手をして術を壊してしまったら、あなたに会えなくなる気がして。正解だったな、昔の俺にあなたを会わせてやれた」
 目を細め、カカシは笑った。穏やかで、柔らかい、優しい笑みだ。さっきまで見てきた過去のカカシが決して浮かべなかった表情だった。
 イルカは手を差し伸べて、その頬に触れる。彼は目を閉じ、猫のようにすり寄ってきた。
 そのまま髪まで手を滑らせる。その白銀は、飛んだ先で見たのと同じような色だったが、比べると僅かくすんでいると知った。気付かなかったが、彼も白髪が増えていたのだ。
 深く窪んだ眼窩から、目尻の笑い皺をなぞる。年を重ねた証を一つ一つ確かめていった。

「あなたは約束を守ってくれたんですね」
「約束?」
「俺に会いに来てくれた」
「あぁ……教えてくれたからね。消えない光があると。あなたがその一つだったよ」
 カカシは微笑んで、イルカを見つめる。そして独り言のように小さく、呟いた。
「――やっと、会えたね」
 その声と眼差しには、愛しいと囁くような優しさがあった。そこにあの青年の頃の、傷を庇う野生の獣じみた、冷えた荒々しさは見る影もない。
 ここに至るまでの彼の長い道について思い、イルカは堪らない気持ちで彼を抱きしめた。

 あの時、若いカカシに大丈夫だと励ますことができたのは、彼がこうして生き延びると知っていたからだ。彼は大切な人たちに愛された記憶を抱いて、歩いていける強い人だと知っていた。苦しみと悲しみをいっぱいに湛えたあの青年が、いつか穏やかに微笑う日が来ると知っていた。その傷ついた胸の奥に光があると、知っていた。
 だが、そんなものは容易に掻き消されてしまう程の激しい嵐の日も、どんな灯でも照らせない長く暗い夜だってあっただろう。
 あの、まだ幼いのに心を殺したように空ろな顔も、痛みと熱にうなされる姿も、眠りながら涙を溜めていた目尻も、もう無理だと零した小さな声も。胸が引き裂かれるほど痛々しく、見ていることさえ耐え難かったのに。きっとそれ以上の苦難が、何度も何度も彼を襲ったのだろうに。
 全てを、カカシは乗り越えてきてくれた。今へと、繋げてくれた。
 そのおかげで、イルカは今、このカカシに会えているのだ。

 抱きしめた彼の服の下、沢山の傷跡の下に、しっかりと脈打つ、温かい生命を感じる。その体温が、いつもより一層深く愛しく、同時に初めて触れたように新しく恋しく思えた。
「ありがとう、カカシさん」
 イルカは零れ落ちる自分の声を聞いた。微かに震えたそれは心の底の、底の底からの想いを表していた。
「ありがとう――生きていてくれて」
 思うままにもう一度囁く。だが、その言葉一つではとても足りなかった。有り余る万感が胸に溢れ、それを表す言葉はこの世にはないように思えた。
「……ありがとう」
 イルカは結局そう繰り返し、それ以上もう何も言えなかった。言葉の代わりに涙が流れ落ちる。
 カカシが、その眦にキスを落とす。そして想いを受け取ろうとするように、優しく唇で掬ってくれた。


***


 光が、イルカを目覚めさせた。
 力強く真新しい陽が、厚いカーテンをも射し貫いている。朝が来ていた。
 カーテンを開けると、明るい光が寝室に満ちる。
 眩しかったのか、カカシが寝返りをうち、片頬を枕に埋めた。眉を寄せ、小さく唸り声をあげたが、目覚めることなく眠り続ける。

 窓の外を見ると、朝陽が昇るところだった。
 それが高くなるに従い、まだ薄闇の中にあった里が、少しずつ明るくなっていく。そしてちょうど火影岩の上に昇った時、里の隅々までが照らされ、夜は完全に終わりを告げた。
 陽を背負い、カカシの顔岩が深い陰影を描きながら、里を見守っている。

 ――嗚呼、そうか。
 イルカは気づき、深く息を吐いた。
 カカシは、イルカを光の一つだったと言ってくれた。誰かを光として胸に抱いて生きてきた人だ。そうやって、暗い夜を越えてきたのだろう。
 だが、それはもはや過去の話だ。
 彼はもう、光を抱いているのではない。
 今や、里中を照らしているのだ。優しく、穏やかな、温かい光で。

 きっとカカシのことだから、それに気付いてはいないだろう。
 振り向くと、眩い朝の陽の中で、カカシは何も知らない子どものような顔で眠っていた。彼の白い髪と肌が、光を一身に集めて抱え込み、輝いている。
 イルカは太陽を仰ぎ見たように、眩しさに目を細めた。ベッドに戻って身体を横たえ、彼の隣に寄り添う。触れた肌が混じり合うように馴染み、同じ温度になった。心地よさに抗えず、目を閉じる。

 もう少し眠って、共に目覚めたら、カカシに教えてあげよう。
 ――あなたはもう、光、そのものなのだと。


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