付属に進むのか、外部受験するのか、いずれにせよ決断の夏だと言われた。熱気と湿気に満ちた不快な講堂の中での、それ以上に暑苦しい、学年主任の先生の言葉だ。 合否を決めるのはこの夏だ。この夏は、今後十年の将来を決めることになる。心して過ごして欲しい。
重苦しくそう言われたが、生徒は誰も聞いちゃいない。受験なんて何だかまだ遠い向こうの話のように聞こえるし、まず目の前にあるこの長い休みに心を奪われているからだ。 海だ山だと小声で相談している。とりあえずは夏祭りに行こうと、俺も誘われた。
皆期待に満ちた、楽しそうな顔をしている。

しかし俺は夏は嫌いだ。
暑いし。いろいろ煩いし。そして何より、学校が休み。
休みだと、先生に逢えない。そんなの何も嬉しくない。

クラスメートと正反対の顔をし俺は、端っこで額の汗を拭うイルカ先生をじっと見つめた。
先生は暑がりだけど、夏が好きだ。何処に行くでもないけれど、何となく楽しいと言っていた。学年主任の話を全然聞いちゃいない生徒たちの気持ちを誰より分かっているだろう。実際、気もそぞろの生徒たちを苦笑しながらも温かい目で眺めている。

ケッと思っていると、ふと、その視線が俺のところに流れてきた。
すると、急に先生の眉が下がった。多分、その場でたった一人浮かない顔をしている俺が気になったのだろう。どうしたんだ、と聞くようにじっと見てくる。 俺は気遣ってもらえたことが嬉しくて、大丈夫だと言うように少し笑った。先生もそれを見て、ほっとしたように肩を落としてから、笑ってくれた。

何百という人間がいる空間で、イルカ先生が俺だけを見て笑う。
それはとても幸せなことだった。
だから、俺はそれだけで我慢すべきだった。一月以上もある長い休みを、その笑顔だけ思い出しながら、大人しく耐えるべきだったのだ。

だが、どうしても抑えられない気持ちのまま、俺は休みに入っても無駄に学校へ行った。部活も入っていないし、普段自習室を使うような生徒でもないので、先生たちは怪訝な顔をした。 気にせず職員室に顔を出したが、出張に行っていたりするらしく、イルカ先生には毎日は会えない。だが会えたら、俺はどうにか捻り出した世界史の質問をして何とか傍にいることにした。イルカ先生は不自然な頻度で俺が職員室に通うことを、あまり疑問に思っていないようだった。いつも笑って、「今日はどこだ」と迎え入れてくれた。

そんなこんな過ごす俺の夏。学年主任が怒り狂うだろうほどに世界史以外の勉強はせず、ただダラダラとしていたが、先生に会えるだけで充実していた。

そして休みが半分程過ぎた頃、夏祭りに行った。
ただ安っぽい屋台の食い物や見世物、友人が連れてきた何処かの女子高の女の浴衣姿を前にしても、楽しくなかっただろうが、人ごみの中でイルカ先生を見つけてから、俺はもうご機嫌だった。

俺は友人たちを捨てて、その癖「友だちとはぐれた」などと言い、イルカ先生にくっついて行った。
先生は、夏祭りでハメを外し過ぎないよう見回りの当番だったので、祭りのそこら中を歩き回っていく。俺も一緒に回り、真実には目を背けて、デート気分を味わった。夏最高、と現金に思ったりした。

しかし、やがて、時が過ぎて、祭りも終わる。
「そろそろ帰りなさい、はたけ」
太鼓の音や子どもの笑い声の途絶えた暗闇で、先生が静かに言った。
嫌だとも言えないので、俺は黙る。
すると、先生も何も言わず歩きだしたので、俺もついていった。

先生は駅方面へ向かう人の筋から少し離れた所へ歩いていく。二人きりだとドキドキした。
ずっと無言だったが、しばらくすると先生が優しい声で言った。
「なぁ、はたけ」
祭りから帰る人ごみの中で、声や足音が煩い。しかし先生の声は良く聞こえる。他の全ての音が消えてしまったみたいに。
「何ですか?」
聞くと、先生は振り向いて言った。

「話したいことがあるなら、いつでも言ってくれな」
先生は真剣な顔をしていた。俺の胸は跳ねて、目は先生から離れなくなった。
道の端の赤い提灯の灯りが、先生の頬を照らして光る。白いTシャツから伸びる腕や首筋で、じわりと滲むように汗が出て、小さな滴となって筋に沿って垂れていく。黒い髪と瞳は夜の闇よりも濃く、しかし紛れずに輝いている。
その全てに触れたい、と胸が疼いた。
だって先生が好きなんだ――そう思った。話したいことと言われれば、それしかない。俺にとってはいつもそれだけ。
俺がそう言おうとすると、先生はぽつんと呟いた。

「――本当は、学年主任のが良いんだろうけど」

うん、そう俺は先生のことがね……って…ん? 学年主任?
「え、先生…どうして…?」
どうしてそうなるのよ? と思って聞くと、先生は答えた。
「俺にだって分かるよ。進路相談だろ? だって、お前、最近おかしかったから。浮かない顔してたし、この暑いのに意味もなく学校に来るし」

そう言って得意げに顎を上げるものだから、否定できなかった。
それに、俺のことを見ていてくれたというのが嬉しかったのだ。何にも気にしてないみたいな顔をしていたのに。多分、気にしていながら、俺が話しだすのを待っていてくれたのだろう。
「俺じゃあ頼りないかもしれないけど、一緒に考えることはできるからな」
肩透かしと喜びが重なって混乱する俺に、先生が一言ずつゆっくりと言った。澄んだ黒い瞳が真っ直ぐに、俺を見る。
「はたけの将来の為に、先生も一生懸命考えるから」

真面目に、誠実に、真摯に、自分のことじゃなくて生徒のことだけを考えてくれている。
イルカ先生は、良い人だ。良い、先生だ。
それなのに、俺は。
自分のことしか頭になくて、ただただ欲求まみれで汚れてる。そんな俺が、先生を好きだなんて、とても恥ずかしかった。

――この人に軽蔑されるようなことはもうしない。
真っ直ぐな視線を受けて、俺はそう思った。

「ありがとう、イルカ先生。俺、頑張るから」
決意を込めて言うと、先生は笑った。


提灯はもう消されていて、歩いていく先は真っ黒で何も見えなかった。
けれど俺は真っ直ぐに歩いていく。いつかイルカ先生と向かい合える日の為に。






←表紙へ