3月に入ると俺は、ある雨の日の午後を思い出す。
それは憂鬱で冷たく暗く、しかし鮮烈な、美しい日だった。



朝から降っているのかいないのか分からないくらいに微かな、細い雨が降り続いていた。月が変わって俄かに真冬の突き刺すような寒さは和らいだとはいえ、こんな陽も射さず冷たい雨が降る日には、春はまだまだ遠いように思えた。
授業が終わって他の学友たちが部活動へ行った後、一人でぬかるんだ中庭を歩きながら俺は、あるいは永遠に来ないのかもしれない、と思った。春なんて温かいものは、この世界には存在しない。ずっと凍える身を抱えながら生きていくしかないのだ。

もうこの一月足らずで俺は、中学を卒業し、高校に入学する。
とはいえ、エスカレーター式に木の葉大付属の高校へ上がるだけだから、入学試験も形式的なものだったし、メンバーもほとんど変わらないから、特に感慨も湧かない。ただ、こうやって自分の意志とは関係なく自動的に動いていくのかと冷えた心地がする。
早く大人になりたい。学生時代は今しかない大事なものだと言われるが、そうは思えない。毎日が無意味で不必要なものにしか思えない。
こんな日々も死ぬまで続くのかもしれない。永遠に春が来ないように思える雨の日のように、今はそう思う。全ては苦痛でしかない。


「あのーすいません」
背後からそう声が聞こえて、泥にめり込んだ足をやっと動かし、振り向いた。
「木の葉高の校舎へはどう行けば良いんでしょう?」
クリアファイルに挟んだ地図を片手に持った男が立っていた。
馴染んでいない、明らかに仕立てたばかりのスーツを着ているのに、傘も差していない。肩と黒い髪の上で、細かい雨粒が白く玉模様を作っていた。
「今、ここですよね」
彼は返事のしない俺に怯むことなく、地図を指し示しながら近寄る。
確かにその地点は、現在地として正しかった。しかし、高等部の校舎へ行くには、一度中等部から出なくてはいけない。直線距離では大したことはないが、目的地までは曲がりくねっている。 大学付属の学校にありがちなことだが、敷地内は入り組んでいて分かりづらいのだ。まるで異物を拒み、そこにふさわしい者を値踏みしているみたいに。

「一度この校舎から出て。そこでまた誰かに聞いたら早いと思う」
俺はそう言った。正しいアドバイスだ。少々素っ気ないにしても。
「そうですか。わかりました」
男は気分を害した様子もなく、礼を言って軽く頭を下げた。
俺はそのまま何処かへ、何処へかは全く決めていなかったけれども、ともかく何処かへ去ろうとした。
しかし、「あれ」という男の声で 引き留められた。
何だろうと思って見ると、男は俺の襟元辺りを見ているようだった。

「君、ここの学生か」
男は言った。俺の襟元の校章を見たのだ。
「ここの先生かなんかかと思ったよ。馬鹿だなぁ、俺」
ちょっと俯いて、照れくさそうに頬の上を指先で掻いている。良く見りゃ制服だって分かるのに、と呟いた。
確かにそうだ、と俺は内心同意する。

「君も、目上の人には丁寧な言葉を使わないと。俺の生徒になったら、怒鳴ってるとこだ」
男は一頻り照れた後、顔を引き締めてそう言った。
説教か、とうんざりして目を逸らすと、男はすぐ言葉を続けてきた。
「でもまぁまだ俺も教師じゃないから。君と同じ、新入だ。4月からよろしく頼むな」

その声は、聞いたことがないくらい、あまりにも柔らかく温かかった。
俺は思わず彼に目をやり――そしてその顔に見惚れた。
彼は笑っていた。その声の印象そのままに。見たことがないくらいに、鮮やかに。

「――お、上がったな」
彼は急にそう呟いて、空を見上げた。
「絶対晴れると思ったんだ」
言いながら、肩をはたき、犬みたいに頭を振って、付いた水滴を落とした。
あっさりと雨粒は離れていき、「じゃあな。ありがとうな」と彼も去っていった。

辺りは降り続いた雨の所為でしっとりと沈み込んでいたが、陽が射すと目覚めたみたいにきらきら輝きだした。
たぶんきっとまた雨は降るだろう。しかし絶対晴れる。
そうして季節は変わる。春は来る。
いや、来てもらわなくては。
だってそうじゃなきゃ、もう一度、あの人に逢えないから。

空を見上げると、厚い雲が割れていき、見る見るうちに鮮やかな青が広がった。






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