バレンタインデーとは、ローマ帝国の皇帝クラウディウス2世が、士気が落ちるからという理由で兵士の婚姻を禁止した際、恋人たちを憐れんで秘密裏に結婚式を執り行い、結果、処刑されたキリスト教司祭バレンタイン(ヴァレンティヌス)の命日(殉教日)に由来すると言われる。
そう解説したイルカ先生は、「まぁ諸説あるんだけどな」と言い訳したが、その顔は満足そうだ。
いつもは船を漕いでいる生徒が、身近な話題で興味を持って聞いているのが嬉しいのだろう。ついでにクラウディウス2世が何をしたのかを話して、それを生徒たちが記憶するのに役立つのもきっと喜んでいる。
イルカ先生にとって、バレンタインという恋する人間たちの一大イベントもその程度のものだ。
歴史に紐付けて生徒たちに興味を持たせる、という目的に役立って嬉しい。それだけである。
「だから、お前らもチョコをあげるだの貰えるだのばっかり考えんなよー? 今日は一人の人間が、愛のために死んだ日なんだからな!」
と、締めたところで丁度、授業終了のチャイムが鳴った。
「せんせー、くさーい」と頭の悪い女子達がはやし立てると、先生は少し頬を赤くする。
しかし彼女らが色とりどりにラッピングされたチョコレートを渡しても、平然と受け取った。先生にとって、彼女らの行為は、ただのイベントに乗っ取った義理にしか映らないのだ。
「ありがとうな」と言い、無造作に紙袋に入れたそれらの何割が、心を目一杯込めた贈り物であるか、先生は気付かない。
俺だって、去年まではそうだった。
自慢じゃないが、バレンタインデーはトラックが必要なんじゃないかというくらいに俺は女子からチョコレートを貰っていた。木の葉高は大学付属の一貫教育だから、俺を知っている後輩の中学生も、卒業して進学した先輩の大学生も、俺に贈り物をくれた。それが一体何の意味を持とうと、俺には関係がなかった。くれるというものを拒否せず貰っていたに過ぎないのだ。
しかし、今年はそういうわけにはいかなくなった。
俺は彼女たちが大いなる勇気を持って、その贈り物を差し出すのだと知ってしまったからだ。
今年俺は、片想いの、しかも実る可能性のない相手に、恋を表す特別な日に贈り物をする。その行為がどれだけの勇気を必要とするのか、身を持って理解してしまったのだ。
俺は、かつてその行為に至った彼女たちを非常に尊敬した。と、同時に、軽はずみにそれを受け取ることが、侮辱に当たるのだということを知った。
だから、俺はもう、バレンタインデーに、貰いたいと思う人以外の他人に、何一つ受け取ることはしないと決めたのだった。
おかげで今年はチョコレート、0個だ。以前はさり気なく、その個数をプライドにしていた俺は少し凹む。
もちろん、本命を貰えればそんな気持ちは露と消えるのであろうが、如何せん、それは望みがない。絶対に、確実に、ない。有り得ない。
だって、その相手は男だし。
しかもバレンタインなんか眼中にないイルカ先生だし。
ならば、俺から、というのも考えたが、それも無理だ。俺にその勇気はないし、それに俺などが渡したら、只の冗談だと思われてしまうだろう。
俺が真剣な顔をすればするほど、先生はきっと大笑いする。あっさり受け取ってくれるが、その代わり爆笑する。全く、目に浮かぶようだ。
でも別に酷いとは思わない。それが普通だろう。(俺などは、男からバレンタインデーにチョコを渡されたら、絶対翌日笑いのネタにする。)
カトリックは同性愛を容認していない。死を覚悟までして恋人たちを結婚させてやったバレンタイン司祭も、俺の想いなんか認めてはくれないのだ。
ま、別に良いけど。誰に祝福されなくても。チョコ貰えなくても。
どうせ、バレンタインにチョコレート、なんて、製菓会社の陰謀だし!
思わず大声でそう叫んだら、俺が数多の女の子からチョコを断っているのを見てきた友人たちに首を絞められた。俺は嘘は言ってないのに……。
*
そうして放課後。
「はたけ?」
バレンタインを恨みながら、とぼとぼ裏道を歩いてたら、後ろからそう声をかけられた。
イルカ先生だった。
わぁっと喜びが湧いたけど、すぐに盛り下がった。先生の自転車のカゴには、愛らしい包み紙に彩られた小箱がいっぱい詰まった紙袋が入っていたのだ。
「あれ、何だよ、お前、今年はチョコ貰えなかったのかぁ?」
苦い気持ちになっている俺に、無神経にもイルカ先生はそんなことを言った。紙袋がぶら下がってない俺の両手を目を丸くして見ている。
アンタのせいだよ、アンタの。という言葉はぐっと飲み込んで頷いた。
「まぁそういうこともあるよ」
先生はぽんぽんと俺の肩を叩いた。いつもなら、触られた! とか思ってどきどきするだろうが、今はそれほど嬉しくない。欲しいのは同情じゃないからだ。
「あ、そうだ」
イルカ先生は突然小さく呟いた。
ごそごそと鞄を漁りだす。
おすそわけだ、とか言って女子生徒に貰ったチョコを渡してくる、という嫌な予感がした。もしそんなことをされたら握り潰してやろうと思う。
そんな不穏な俺の気配にもイルカ先生は気付かない。
笑顔で「ほら」とあるものを差し出した。
それは恐れていた、綺麗にラッピングされた小箱ではなかった。
茶色地に白抜きで、大手菓子メーカーの名前が書いてある。
ただの板チョコだった。
「俺の食べかけだけどなー」
先生は、既に4分の3くらいなくなっていたそれを、ぱきりと割って半分にした。
それからぺりぺり銀紙を剥がす。
そして先生はそれを、
「ほら」
そう言って俺の口先に差し出した。
「……ありがとう、ございます…」
俺はやっとの思いでそれだけ言って、歯で挟んで受け取った。
「このメーカー美味いんだよ」
先生が嬉しそうに言う。
しかし俺はそんなこと全く聞いちゃいなかった。
歯の間のチョコレートに完全に意識が集中していたからだ。
そうっと口の中に入れたチョコレートは最高に甘かった。今まで食べたことないくらい。
「残りは先生のだからやらん」
先生は意地汚く、もう欠片みたいなチョコに執着して大事そうに茶色の包み紙に戻している。
紙袋いっぱい入った女の子たちからの贈り物の、綺麗な包み紙のどの色より、その地味な茶色は輝いて見えた。
管理人もチョコ欲しいです。
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