「はたけ! 職員室に来いって言っただろう!」
イルカ先生が怒鳴りながら入ってきた。俺以外誰もいない教室で、先生の声は大きく響いた。

どしんどしんという豪快な足音も良く響く。先生の足音はいつも豪快だけど、今はもっと。怒っているからだ。
先生はそういうのが全部表に出る。生徒を叱ってる時は漫画みたいに頭から湯気が出るし、女子生徒にからかわれてる時は顔を真っ赤にしたりする。それから、嬉しい時も。先生の大好きな戦国時代とかローマ全盛期を授業で教える時は、本当に楽しそうに話すのだ。

「全く何考えてんだ!」
今は明らかに怒っているイルカ先生が、また怒鳴り、同じ位大きい音でばしんと、一枚のわら半紙を近くの机に叩き置いた。

それは、午前中にやった世界史の小テストだった。
一番上に、俺が書いた『はたけカカシ』の文字。それから、先生の力強い筆跡の問題文が続く。
その下は――何もない。そこに書くべき俺が、何も書かなかったからだ。

「分からなかった訳じゃないよな。お前いつもほとんど100点なのに」
断言するように、イルカ先生は言った。

確かに。分からなかった訳じゃない。
書くべき答えは全部分かってた。
でも書かなかったのだ。他の生徒と笑い合ってる先生を見たら、いつも通りに正しい答えなんか、書けなかった。
自分の名前しか、書けなかった。

だって、俺が先生に見て欲しいのは、それだけだったから。
100点の赤文字をくれるより、ただ、俺を見て欲しかったから。

でもそんなこともちろん言えない。
黙り込んで俯く俺に、先生は軽く溜息を吐いた。
ついやってしまったけど、これじゃ先生を困らせただけだった、と後悔した。

「まぁ…たまには良いか」
少しして、先生が明るい声で言った。顔を上げてみると、先生は笑ってた。
先生は叱る時は物凄い勢いだけど、生徒がちゃんと反省すると、簡単に許してくれる。後まで引きずってネチネチ言ったりしない。生徒を良く見てて、本気でしょげてしまった奴には、後で購買でアイスを買ってくれたりするのだ。

「でももうやるなよ。俺はお前のテスト見るの楽しみなんだ。良い答え書くから」
俺にはそんなフォローをくれた。アイスなんかよりずっとずっと嬉しい。
それからイルカ先生は、
「歴史、好きなんだろうなぁ、はたけは」
そう言ってにかっと笑い、叩きつけた白紙の小テストを取って、差し出してくれた。

今時わら半紙だし手書きで読み辛いと、他の生徒には大不評の、イルカ先生お手製のテスト。
でも俺はそれが好きだった。冷たい上質紙の、機械の文字なんかよりずっと良い。先生の温度が感じられるから。

俺はその温かい紙を、イルカ先生の手ごと、取った。
先生の手は熱かった。あるいは俺の手が、ただ冷え切っているだけかもしれないが。

「好きです」
じわりと熱が伝わるのと同時に、俺は呟いていた。
「好きなんです」

手を掴んだその近い距離で、見つめ合う。
先生は驚いて、目を見開いていた。
俺はその混じりけのない黒い瞳と、その周りの白目の透明さに、言ってしまった言葉さえ忘れて見入った。

しかしそれも、先生が瞬きをするまでのたった一瞬で終わった。

先生は、笑い、
「そんなに好きか、歴史」
と言ったのだ。

俺は脱力して先生の手を離す。熱い指先が手の平を滑って途切れると、途端に俺の手は白く冷え切った。
先生の健康的な肌色と正反対の、俺の青白い手の平は、先生を求めて彷徨っていたけれど、俺は努力してその衝動を抑え、落ちてしまった小テストを拾った。今はまだ、この温かさで我慢しよう。

先生は大事そうに小テストを仕舞う俺を見ながら、「そんなに好きだったのかぁ」とまだ呟いている。
俺はちょっと苦笑いしながら、頷く。
そうです、大好きなんですよ。
歴史が、じゃなくて――…先生が。









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