あれは一体、いつの事だったか。
温かい土の中で、彼は微睡んでいた。
俺はすぐ隣で、彼が目覚めるのを待っている。
彼にはまだ一目も会っていなかった。辺りはずっと真っ暗だし、そもそも俺達の目は退化してほとんど見えないのだ。だが、俺にはそこに彼がいるという事が、はっきりと分かっていた。それだけで十分だった。
ある夜、彼は地上に出て、木に這い上った。
背が割れ、硬い皮を脱ぐ。現れた白く柔らかな羽が、微かな風で揺れた。
この瞬間に、鳥がその身を食らうかも知れない。体力が尽きるかも知れない。全身に、苦痛と恐怖が満ちている。それでも彼は一心に、未来を臨む。
そして、ゆっくりと時間をかけて、真新しい身体に生まれ変わった。
彼が夜の闇に、薄青く光り輝きながら、喜びに喘ぐように、ふるふると細かく震える。それは息を呑む程に、美しかった。
やがて朝が来て、彼が何処かへ飛び去っても、俺は一夏、鳴きもせず、ただその姿ばかり思い返していた。
+
あれは、もしかすると夢を見ただけなのかも知れない。
彼は海にいた。
俺と同じ人の身をしていたが、水の中に生きるものだった。
俺は彼を、陸に連れ出し、海へ帰さなかった。大きな水槽に入れて、自由に泳ぐ様を眩しく見つめた。
鋭く射した陽が、揺れる水面で、粉々に砕けて落ちる。それが水底を泳ぐ彼に、木漏れ日のように穏やかに降り注ぐ。滑らかな素肌と潤った黒い瞳が、きらきらと輝いた。
水中の彼に声はなく、厚いガラス越しに合わせた手は、常に冷える。
だが彼は、言葉もなく、触れる温もりもなしに、俺を助け、慰め、笑いかけ、喜びを教えた。
だから俺は全てを捨て、彼と同じ世界を選んだ。
言葉も風も、温みも、何もいらなかった。
広い海の底に、二人きりで沈み込む。
それを彼は、嘆き悲しんだ。
俺はそれでも、これ以上ないという程に、満ち足りていた。
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あれは確か、そう昔の事ではない。
教会の前で、彼は笑っていた。
黒髪に、同じく黒い礼服が良く似合う。
襟足にこぼれた後れ毛が、暑さの所為か、緊張の所為か、首筋に張り付いている。
隣には誰か俺の知らない人が立っていた。
その人はまるで一対の生き物だと言わんばかりに、真っ白な美しいドレスを着て、彼と似た笑顔を浮かべている。
俺はそれを、遠くからじっと眺めた。
良く晴れた、暑い、しかし気持ちの良い風が吹く日だった。彼らの周りの人々が祝福し、投げた花が躍るように天を舞う。
彼が眩しげにそれを仰ぎ、満面に笑っている。
幸福な光景だった。
俺にはそれが、心の底の底から、嬉しかった。
そして、とても、苦しかった。
その時こめかみを垂れた汗の感触は、いつまでも生々しく残った。
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あれは、いつの事でも良い、些細な事だ。
彼は、この世界の何処にもいなかった。
俺は彼を知らず、思い出さず、苦しむこともなかった。
この頃の事は、何も覚えていない。
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そして、俺たちは忍者になった。
そう、彼は忍者だったが、薄暗い所は何処にもなかった。
彼は、誰もが恨み憎んだ存在を、許し、愛して、抱き締めた。迷い、悩み、苦しみ、そして答えを得て、笑う。
正しく、彼だった。
俺はいつも通り彼に惹かれ、彼を見つめた。そしていつも通りに、失う筈だった。伸ばした手は空を切り、胸には何も残らない。今まではいつもそうだった。
しかし、どうしたことだろう。
数十年経った今も、彼は俺の前にいた。
どこかの家の軒先の、風鈴の音が聞こえる。
俺はうちわを扇ぎ、彼に風を送っていた。彼の髪が、ふわりふわりと揺れている。元は黒かったそれは、長い年月で少しずつ変わって、今はもう真っ白だった。
ふっと、彼の瞼が開く。潤った目がしばらく彷徨って、それから俺を見た。
「……夢を見ました」
「夢?」
「ええ、むかしの夢を」
彼はそう言うと、もう一度瞼を閉じた。また眠ってしまうのかと思ったが、そうではなかった。目を閉じたまま、彼は小さく囁き始めた。
「忍びだし、そう長くは生きられないと思ったから…あなたを……」
語尾はほとんど擦れて聞き取れない。
多分、独り言だったのだろう。「うん?」と、一応聞き返してはみたが、言い直す気はないようだった。
彼は俺をじっと見ながら、年を取って段々下がっていった目尻を、より一層に下げて笑った。
「……でも、長生き、しましたねぇ」
俺も同感だと、笑いながら、彼の皺の寄った手の甲を撫でた。
俺にとって、それはただ年を取った、長生きをしたというだけのことではなかった。その皺の一本一本を作った長い年月と同じだけの時間を、俺は彼と過ごすことが出来たのだ。それ以上の幸福は、俺には考え付かない。
俺は、これまでを思い返して、その幸福をどう言い表そうかと迷い、だが首を振って、素直に込み上げる言葉を吐いた。
「ありがとう。幸せでした、とても」
それから、おまけとして「今回が一番」と、呟いた。
彼が聞いても意味は分からないだろう。これこそただの独り言で、だから聞こえないようにしたのだ。
だが、彼はそれを耳聡く聞き取り、
「……そう、なら、次はもっと…――」
と言った。
それはほぼ寝言のようで、言いながら、瞼が下がり、語尾は消えていた。
細い息でそっと空気を揺らすと、彼はまた眠りに落ちて行った。
「“次”って…、貴方まさか」
俺は驚いて、彼の手を握り締めた。
眠る彼を問い詰めようとして、だが、止める。
温かい手が、何処にも逃げずに、そこにある。それだけで、真実はどうでも良くなった。
その時彼は、それまで見たこともないような、うつくしい笑みを浮かべていた。