村の外れの森の奥には悪魔が棲んでいる。
悪魔は願いを一つだけ叶えてくれる。
願い人の魂と引き換えに。
ここはどこ。
イルカは方角も分からなくなった森の中で独り呟いた。
行けども行けども同じような景色が続く。星の位置で見当をつけようにも木々の枝が覆い隠していて、空も見えない。
もう2時間ほどもこうしている。
夕暮れ時、遊んでいた友達が母親や父親に手を引かれて帰って行った後、迎えの来る筈のない自分は森へと入った。友達がいる時には入ったことはない。他の子は、親から森へ入ってはいけないときつく言われているので、絶対に入ることをしないのだ。
イルカは時々森へ行った。そこは大人も子どもも誰もいない。それが何となく落ち着いた。始めから終わりまでずっと独りなら、期待をしなくて済むからだろう。
相変わらず森には誰一人いない。今回はそれが仇となった。ぶらぶら歩いている内にいつの間にか随分奥まで来ていることに気がついても、道を教えてくれる者は誰もいなかった。
闇雲に歩き続けた。森には偶然誰かが来ることもない。イルカの不在に気付いて探しに来る者もいない。ならば自力で道を見つけるしかないのだ。どこまでも一人で歩き続けた。
しばらく行くと、不意に開けた場所へ出た。木々が絶え、背の低い草花のみの草原のような所だ。イルカは空を久しぶりに見た。良く晴れた満月の日で、余りに月が明るいので、星がいつもよりはっきり見えないほどだった。
草原の端に小さな泉があった。イルカは急に喉の渇きを覚えて、その泉の水を両手で掬い上げて飲んだ。水はとても冷たくて美味かった。
そうしていると、人の話し声が聞こえてきた。どんどんこちらへ近付いてくる。イルカは助けを求めようとそちらを見たが、その尋常でないような声色を聞いて、思わず近くの岩陰に隠れてしまった。
その声は静かに、しかし狂ったような調子で、止め処なく話し続けている。もう一つの声はそれに反し、ただ坦々と低い声で、階段を上るような規則的な調子の、短い返事しかしない。
声はイルカのすぐ近くまで来て、泉の傍で止まった。
泉の前で、「彼女を助けてくれ」と狂ったような調子の声が何度も言うのが聞こえた。「わかった」と低い声が一度答えた。
イルカは好奇心に駆られて、岩蔭から顔を覗かせた。
2人の男がいた。一人は短い黒い髪をした大柄な男で、泉の縁で座り込んでいる。そしてもう一人はその隣に立っている。すらりとした体格で、非常に背が高く、見たことのない銀色の髪をしていた。
黒髪の男は座り込みながらぶつぶつと何か言っている。銀髪の男はほんの僅か頷く。それから何か一言だけ小さく呟いた。
すると黒髪の男は、ずっと何か言い続けていた口を閉じ、泉に両手を差し入れた。そしてイルカが先程したように、水を掬い上げ、それを飲んだ。
しばらくぽっかりと空いた落とし穴のような沈黙があった。葉擦れや泉の水音や風の音も聞こえない、唐突で絶対的な沈黙だった。イルカはもしや耳がなくなってしまったのかと疑った。
どれ程経ったか、突然黒髪の男が立ち上がった。と、同時に、その姿がじわじわと滲み始めたかと思うと、煙のようにすっかり掻き消えてしまった。
夢を見ているのかとイルカは思った。声も出せないままイルカはそこを見つめ続ける。
銀髪の男は驚く素振りもなく、消えた男がいた場所に立ち、何かを探すように空を見上げた。イルカはその視線を追った。
空には相変わらず大きな月が明るく輝いている。そしてその周りを金色の何かが漂っていた。とても小さくて弱弱しい印象を受けたが、ぴかぴかと輝いていてとても綺麗だった。
銀髪の男はそれに向かって何か呟き、風を起こすように片手を軽く振った。金色の光はその僅かな風にするすると飛び上がり、どこかへ行ってしまった。
それから急に、少しだけ雨が降った。雲なんかないのに、一粒一粒確かめるみたいに、ゆっくり降った。月は変わらず明るくて、丸い雨粒はそれを反射してきらきら光った。そこに立つ背の高い男も、雨粒を受けて、銀の髪を自ら発光させるみたいにきらきら光っていた。
「迷い子かな」
見惚れていたイルカに突然低い声がかけられた。
銀髪の男がイルカを見ていた。
「ここを真っ直ぐ行くと良い。何があっても、振り返らずに真っ直ぐ」
男は、何かの特別な呪文のように丁寧に言い、長い腕を伸ばして、森を指差した。
イルカは驚いて呼吸もままならなかった。男が指した道に顔を向けることさえできなかった。ただイルカはきらきらと銀色に光る男を見つめた。
男は髪だけでなく肌も、月明かりを反射する白色で、まるで血の気を感じさせない。形よく収まった顔のパーツは、左右で色の違う瞳を始め、何もかも異質で作り物めいていた。そして何よりおよそ人とは思えないほど美しかった。
身動きしないイルカに、男は少し首を傾げて目を細めた。左の目が赤く光ったように見えた。と思うと、いつの間にかイルカは、自分が泉の横、男のすぐ前にいることに気付いた。
「もしかして、泉の水を飲んだの」
言葉は一応疑問形ではあったが、イントネーションは断定するような雰囲気があった。イルカには頷く必要もないようだった。
「これは契約の証なんだよね。これを飲むと、魂が俺のところに戻って来るの。でもま、君の願いは叶えてないから大丈夫。帰れるよ」
ここまで言われてイルカはやっと気付いた。『村の外れの森の奥には悪魔が棲んでいる』。嘘だと思っていた。ただの子どもへの脅し文句だと思っていた。だけど、この男が。
「――悪魔なの」
「そう呼ばれてるみたいね」
脈絡のなさの為か、ストレートな物言いの為か、イルカの言葉に男は苦笑した。
思わず漏れ出した、というような笑みは、男の作り物めいた顔を劇的に変化させた。瞳の切れそうな緊張感が緩み、存在感のない薄い唇の酷薄さがなくなると、その人は突然、毎日隣にいた誰かを思わせるような親しみを湧き上がらせた。
「さっきの……」
イルカは男の親しみのある笑顔が消えないうちに口を開いた。先ほどの不思議な光景が一気に蘇り、その意味が分かったのだ。
悪魔は、黒髪の男の願いを叶えてやったのだ。そしてきっとあの金色のぴかぴかしたものが魂。願いと引き換えに魂を悪魔に渡す。そういう言い伝えだ。でも悪魔だという銀髪の男は、それを追い払うみたいに空へ飛ばしていた。
「どうしてさっき、男の人の、逃がしたの」
男はまた少し首を傾げたが、笑みは変わらず、いや、少し深くさえなったようだった。
「…魂のこと?」
男が少し考えて聞いてきた。イルカはこくんと頷く。
「食べないの?」
悪魔は魂を奪って食べてしまうのだと聞いたのだ。だから素直に聞いた。
男はまた少し噴き出すように笑った。
「普通の悪魔は食べるよ。俺は食べない。美味しいもんじゃないから」
「じゃあ、なんで。魂が欲しいって言うの?」
そう聞くと、男は笑顔を保ったまま、少し眉を下げた。イルカの純粋な疑問は、男を傷つけたようだった。イルカはそれに気付き、しかしどうしたら良いかは分からず、黙って下を向いた。沈黙が落ちる。
「……そう決まってるから」
僅かして、ぽつんと、男が言った。
「俺は別に欲しくなんかないのよ、魂なんて」
その声は小さく、静かで、哀しげで、他に欲しいものがあると言うような口振りだった。
イルカは思わず男を見上げた。男はやっとの思いで、と言わんばかりに無理な微笑を浮かべていた。
イルカは手を伸ばした。亡き母が昔してくれたように、頬を包もうと思ったのだ。だが背の高い男には届かず、手を引っ込めた。自分の幼さが歯痒かった。
男はそれでも、イルカの気持を分かってくれたようで、目を細めて笑った。イルカは少しほっとした。
だが、男はすぐその笑みを消し、腕を伸ばして森の中を指差した。
「さ、そろそろ帰りなよ。泉の水は心配ないから」
男がそう言うと、イルカの足は勝手に歩きだした。歩こうと思わなくても勝手に歩く。
「じゃあね」
背中に男の声が聞こえた。イルカは振り返って何か言いたかった。だが、首は少しも動かないし、足はどんどん森を進んでいく。あれ程たくさん歩いて迷い続けた森だったのに、少し行くとすぐ村の明かりが見え始めた。
村へと帰って行きながら、イルカは声を上げて泣いた。
男の哀しげな声、寂しそうな顔を思い出す。
魂なんか欲しくないという、あの悪魔が欲しいものがイルカには分かるような気がした。イルカの欲しいものと同じだと思ったのだ。
魂じゃなくて。魂じゃなくて。ただ――。
イルカはそれを言葉にできず、ただ泣き続けるしか出来なかった。泉の水は心配ないと言ったのに、きっと嘘だったのだ。イルカの心はもうあそこに置いてきてしまった。悪魔のことしか考えられなくなってしまった。
イルカはいつか、自分の手が悪魔の頬に届くほど大きくなったら、あそこへ戻ろうと思った。